戦艦大和の故郷『呉』に萌えて♪ [♡工場に萌え萌え♡]

地図から消された島、大久野島の毒ガス製造工場潜入を終えて本土に帰還中です
本島へ帰島する.JPG
大久野島をじっくり散策する事が出来て大満足です(*´∇`*)
でもね・・・あのね・・・実はね一回フェリーに乗りそびれて5時間缶詰になってたんだぁ(* ̄∇ ̄*)


PM14:30
爽快なワインディングが続く.JPG
そんなドジっ子な僕は広島本土に到着するなり、早速R2で軍港呉へと向かいます
途中気持ちの良いコーナーが続きますが飛ばしすぎ注意(*'-'*)


これから僕が行く所は『大和ミュージアム』です


大和ミュージアムではコレに会えます
これは!?.JPG


戦艦大和!!.JPG
コレだよコレ!!
戦艦大和だよo(*^▽^*)o~♪



(これから始まる長い長い説明のお供に)


『大和は大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦で、大和型戦艦の一番艦です。
大和型戦艦と呼ばれる船は大和の他に武蔵があります。
起工1937年11月4日、進水1940年8月8日、就役1941年12月16日
建造所はココ、広島県は呉市の呉海軍工廠。
建造費は約137,802,000円


大和の性能と武装は以下の通り


排水量満載72809トン

全長263m

全幅28.9m

主機関 ロ号艦本式缶12缶

艦本式タービン4基4軸

153,553馬力

最大速力 27.46ノット(公試成績)

航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)

乗員
竣工時:2,500名
最終時:3,332名


兵装
(新造時)
45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基


兵装
(最終時)
45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲 舷側 410mm
甲板 200mm~230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
搭載機 6機(カタパルト2基)』


こうして大和は何度も兵装を替え上空から襲ってくる航空機に対して守りを固めるのでありました。


『当時の日本の最高の技術を結集し作り上げた戦艦大和は主砲サイズ、排水量共に他を圧倒する
史上最大の戦艦となった。
起工から進水までの期間3年という短い建造期間は、ブロック工法という工法で建造された為である。
ブロック工法をざっくり説明するなら、船舶を区画ごと、パーツごとに造り最終的にそれぞれの区画パーツを
一気に組み合わせる作り方。
(僕はよく料理をするんだけど中華料理の作り方に似ているような?)


話を戻すけど、この大和建造の為の技術、効率的な生産管理は戦後の日本の工業を支え、
お隣の国韓国もこの生産方式をもととし、産業を発展させてきました。


艦の性能やサイズはさることながら、製造技術、生産管理も最高のものであった大和だったが、
時代は戦艦と戦艦どうしがぶつかり合う艦艦戦から、航空母艦とその艦載機を中心とした
機動部隊に主力が移っていったことから、世界最高レベルの戦闘力を発揮する事はできなかった。』



『1937年11月4日
計画名A140F5は軍の管制下におかれ、静かに進んだ。
A140F5とは大和建造計画の事である。』
呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20日).jpg
大和建造は国外はおろか国内、周辺住民にも知られる事なく秘密裏に進んだ。
広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドックには、大和建造の為に拡張され、造船所を見下ろせる所には
塀が設けられ、艦の長さを判別し辛くさせるため屋根半分と周囲は和棕櫚(わじゅろ)と呼ばれるほうきの材料を
使った。


工員には他部署の情報は必要最低限の情報しか連絡されず、軍部でも大和造船の事を知るのは
ほんの一部のものだけであったという。』


大和の戦い
『1942年
連合艦隊旗艦となった大和は、同年5月29日ミッドウェー作戦に参加していたが主隊として後方にいたので
戦闘には参加せず、6月14日に柱島泊地に帰投。

1942年8月17日
ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日、トラック入港。

1943年2月11日
連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、
旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。

5月8日
トラック出航、柱島へ向かう。
呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。
3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていたが、
本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加せず、
居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、
他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄された。

10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。
アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。
旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。
しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港。

1943年12月25日
トラック島西方180海里でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、
3番砲塔右舷に1本被雷する。
爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、
スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた。
敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、
装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。
トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。
浸水量は全部で600トン未満であり、火薬庫と機械室の機能は失われなかった。
下部火薬庫には浸水は認められなかった。
この欠陥に対して、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修が行なわれた。

1944年6月15日
マリアナ沖海戦に出撃。
機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、アメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。
大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。
しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、
数機を撃墜するという失態も犯している。

10月22日
レイテ沖海戦に参加。
第二艦隊第一戦隊としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指し出撃。

23日
早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が
一時指揮を執った。
夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。

24日
シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。

25日
サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発発射したが、この時の戦果に付いては諸説ある。
有名なものに、アメリカの護衛空母「ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾一発が命中して大火災を起こしたと
証言する意見もあるが、ただこれは主に当時、乗員であった者からの言葉や日記などから
世間に広まったという傾向が強い
(重巡利根艦長黛大佐は、著書で戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかったと、
強く反論している)。
また、米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、
同艦は0801に重巡の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。
大和が空母を砲撃したのは0709までの間であり、大和主砲弾が命中した可能性はほとんどない。
「当たって欲しい>当たったはず」という精神作用が、
防御煙幕や至近弾を火災の煙と誤認させたものと思われる。


レイテ沖海戦では往復の航程でアメリカ軍の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、
戦闘継続に支障は無かった。
砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、
天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡ってはがしただけで跳ね返され、
空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た
(第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で
第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う)。
また前甲板の爆弾は鋲座庫付近に水面下の破孔を生じ、約4,000トンもの浸水が発生した。

レイテ湾の入り口まで来たが、結局栗田長官は近隣に米機動部隊が存在するとの誤報を受けて反転を命じ、
突入することなく引き返している。
引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍機が攻撃にきた。
残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。』



『1945年3月19日
呉軍港に帰港した後、空襲を受け敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。
3月19日の呉空襲で、敵機の攻撃を回避する大和。.jpg


1945年3月28日
「次期作戦」に向け大和を旗艦とする第二艦隊は佐世保への回航を命じられたが、
米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

3月30日
アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために
呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。

4月5日
連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。

「【電令作603号】(発信時刻13時59分)
8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。
部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。
31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。
海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」

「【電令作611号】(発信時刻15時)
海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。
陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日
「【電令作611号改】(時刻7時51分)
沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」
として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。
第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。

この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘル為ニ」と
神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。
一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復半分の燃料を積んでいたともされている。

第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞))で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槇(マキ))の3隻は練度未熟とみて、
豊後水道で呉に引き返させた。

天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、
つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、
日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、
自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として
敵陣突入させるというものであった。

アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、
作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。
しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカの潜水艦「スレッドフィン」に行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。
しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、
大和を撃沈するということが目的でありそのために手段は選ぶべきではないと考えマーク・ミッチャー中将の
指揮する機動部隊に航空攻撃を命じた。
しかし、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に
攻撃部隊を送り込んでしまった、という説がある。

九州近海までは、陸上基地から発進した航空機が艦隊の護衛を行ったが小規模な編成であり、
見送りに近いものであった。
またそれも4月7日昼前に帰還してしまう。
入れ替わりアメリカ軍の偵察機が艦隊に張り付くようになる。』



『4月7日12時32分
鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、
射撃を開始した。

8分後
艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾(250キロ爆弾と思われる)2発を被弾。
後部射撃指揮所が損壊した。
特に後部射撃指揮所、つまり後部艦橋はオノで叩き割られたように跡形もなく破壊された。
建造当初から弱点として問題視されたこの後橋及び、副砲周辺部の命中弾による火災は沈没時まで
消火されずに燃え続けた。
(攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している)
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日).jpg


以後14時17分まで
アメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた。
戦闘機も全機爆弾やロケット弾を装備して出撃した。
攻撃機の中には、大和とアメリカ軍空母の間を3往復したものもいた。


主な被害状況は以下のとおり。


12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障(1345中央に復元固定)。
13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
14時00分 中型爆弾3発命中。
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中(右舷後部という意見もある)、傾斜増す。
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令。
傾斜した大和を守るべく、防空戦を続ける冬月の長10センチ砲が火を吹いたところ.jpg


大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。
米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、
復元性の喪失と操艦不能を起こした。
後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、
直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。
このことにより、米軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、その後副舵は中央に固定された。傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが、
機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、
生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。
しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、
大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。
そのためこの魚雷が命中した時は、
艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。
またそれまでの魚雷命中とは違い、
下から突き上げられた後に「艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下した…」という証言もある。
すでに左の舷側は海水に洗われる状態であった。

最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。
しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、
総員上甲板(総員退去)の発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになった。

艦橋トップの測距所からは、煙突にごうごうと海水が流れ込み、そこに兵員も吸い込まれるのが見られた。

方位盤射撃手の村田大尉も
「最期まで艦橋最上部の射撃指揮所におり艦と運命を共にするつもりであったが、部下と退艦するしないで押し問答となり、このままでは部下も巻き添えにしてしまうと思い指揮所の外にでたところ、
普段は目もくらむ高さの指揮所のはずが、すぐそこに海面があり、
あっというまにザブンとそのまま海に漬かった」と後述している。

また、随伴した駆逐艦からは大和が操艦不能になっているのが観察され、
一部駆逐艦との衝突の危機もあったが駆逐艦側が回避した。
その後急に傾斜が激しくなり、お椀をひっくりかえすようにゴロンと横転したと思うと、
海面が盛り上がって大爆発したという記載も残っている。

横転(または転覆)は14時23分。
大爆発を起こして艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。
大爆発して沈没(4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分).jpg


爆発の原因は船体の分断箇所と、脱落した主砲塔の損傷の程度より、艦内炎上で拡がった火炎により、
2番主砲塔のバイタルパート部の火薬庫が誘爆したためとされる。


勇猛果敢に強大な敵と戦った大和は、北緯30度43分、東経128度04分、
長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点で静かに眠っている。』




以上が僕が調べた内容でしたo(*^▽^*)o~♪



人間魚雷.JPG
大和ミュージアムには他にも色々な展示物があって、これは悲しい潜水艦『回天』です。
回天は正しくは魚雷ですね。
一撃で戦艦を沈めてしまえる破壊力を持つ魚雷なのですが、
この中に人が乗り込み特攻するわけです。


零.JPG
コレは零戦o(*^▽^*)o~♪
まるで生き物のような動力部です。
大戦初期、連合軍の戦闘機との戦いで圧倒的な強さを見せ付けた零戦とそのパイロットは
ゼロファイターと呼ばれ恐れられました。


最近の戦闘機も凄くかっこいいんだけど、もしも自分で操縦して旅に出るなら、レシプロエンジンの
飛行機のほうが味があっていいねぇ(*´∇`*)
(平民だから夢見るだけね(* ̄- ̄)y─┛~~)


ソユーズ.JPG
コレは第二次大戦とは無関係だけど、ソユーズっていうロシアの宇宙船だよ♪


IMG_5247.JPG
ち・・・ナッパは乗っちゃいないか( ̄Д ̄;)


そんなこんなで大久野島や大和ミュージアムを満喫したゆきですが、胃袋も海軍色で満たすとしましょう♪
夕食はここで.JPG
海軍さんの麦酒館ってお店にやってきました(*'-'*)


今日も炎天下の中数々の潜入の任務を終えた自分に乾杯o(*^▽^*)o~♪
呉の地ビール.JPG
呉の地ビールは数種類あるようです


元祖海軍さんの肉じゃが.JPG
麦酒と肉じゃがはお腹が膨れますo(*^▽^*)o~♪
呉は肉じゃがの発祥の地だって知ってた?
発祥の地は他にもう一箇所名乗りを上げてるんだけど、この肉じゃがを作らせたのが
かの有名な『東郷平八郎』だといわれています。
東郷平八郎が留学先のイギリスのポーツマツで食べたビーフシチューの味が忘れられず帰国後、
艦上食として作らせたのが始まりだといわれています。
当時、バターやワインといったものは日本にはなく醤油、砂糖、みりんを替わりに使ったものが
主流となり肉じゃがが誕生したのであります。


更に頂.JPG
う~んo(*^▽^*)o~♪こっちの麦酒もうまいねぇ♪


広島といえばお好み焼きが有名なんだけど、更に地域を限定した所が今日のグルメのポイントだよ(*'-'*)


サラダ.JPG
野菜うまうま(*´∇`*)


呉名物小いわしの天ぷら.JPG
呉名産石焼きじゃこ飯.JPG
小いわしの天ぷらにじゃこ飯も有名なんだって(* ̄▽ ̄*)ノ"
今夜はこうしてグルメを堪能しながら呉の夜が更けていくのでありましたo(*^▽^*)o~♪


ん~流石にココまで調べたり、読んだりコピーしたりしてると疲れたので、潜水艦潜入はまた次回(*´∇`*)
もっと疲れるのは全部読んだ俺達だって?
ですよねぇ♪読んでくれてありがと(*´∇`*)
(引っ張る広島ネタ(* ̄▽ ̄*)ノ")

nice!(31)  コメント(15)  トラックバック(1) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 31

コメント 15

tsun

海底に沈んだ大和が、2199年ヤマトとしてイスカンダルに旅立ちます。
しかし、真っ二つに折れた大和を再生する必要性は全然ありませんね。
大和、なんとも美しい船です。
by tsun (2010-08-21 01:26) 

momotty

船に乗り遅れちゃったの?
なんで?時間間違えた?
ここの島は1日に2本とかの運行なのかな?

グルメレポもすごい!
ところでビール飲んだ後バイク乗って帰ったの?
バイクの代行って聞いたことないっす(>_<)
by momotty (2010-08-21 07:05) 

お茶屋

麦酒が・・・これまたおいしそうですね〜!
by お茶屋 (2010-08-21 10:42) 

Live

Beer付ってことは、広島本土に泊まりの旅だったんですよね。
やっぱり、運転がないと食だけでなくて、飲食になれるのが
いいですよね~。
by Live (2010-08-21 16:47) 

ゆき

tsunさんへ♪
宇宙を旅する大和!コレは是非復活して顔色の悪い宇宙人と出会って欲しいですねo(*^▽^*)o~♪
大和はやっぱりかっこよくって奇麗ですよね(*´∇`*)
大海原にぽつんと浮かんでいる写真なんて、まるで柳の葉が
湖に静かに浮かんでいる様で美しくもあり儚くもあります(*'-'*)
by ゆき (2010-08-21 22:17) 

ゆき

momottyさんへ♪
大久野島はリゾート地のようで一日に何度も船の往来があるのですが、
人しか乗れない旅客船と、車も乗せれるフェリーがあって、約1時間置きに
交互にやってくるんですよ(*'-'*)
フェリー逃したらだいたい2時間待ちのトラップに
はまってしまいました(* ̄▽ ̄*)ノ"

実は麦酒を飲む前にこのお店を見つけて、周囲にちょうどいい
宿が無いかをチェックしておいたのですよo(*^▽^*)o~♪
ですので、宿にバイクを止めて徒歩でお店に向かい地ビールに舌鼓を
打たせていただきました(*´∇`*)
by ゆき (2010-08-21 22:26) 

ゆき

お茶屋さんへ♪
呉には色々な味の地ビールがあって、コクに深みのあるビール、
キリリと苦味の強いビール、コク、苦味のハーフ&ハーフ的なビールと
様々な旨みを楽しめてまるで大和の装備のように、自分の求める味を
楽しめますよ(*´∇`*)

by ゆき (2010-08-21 22:30) 

beisi

技術の粋を集めると美しいものが出来ますね。
by beisi (2010-08-21 22:41) 

ゆき

Liveさんへ♪
近場に宿を取ったので呉の町をぶらぶらと歩いて飲食させていただきました(*´∇`*)
呉の軍港へ続く川沿いを歩いて行ったのですが街の夜風が
お酒でほてった頬をかすめて行ってとても気持ちが良かったです(*'-'*)
もしかしたら同時の水兵さんも戦友と肩を組みこの地を歩いていたのかもしれませんね(*'-'*)
by ゆき (2010-08-21 22:54) 

ゆき

beisiさんへ♪
機能美という芸術が、愛するモノ達を守りたいと言う想いがここまでの
艦を作り上げたのでしょうね(*'-'*)
そして、技術の粋を極めた船乗り達が息を合わせて動かす大和。
至近弾をギリギリで交わす動きも神業といえるかもですね(。>0<。)
でも、至近弾は艦のキールに確実にダメージが蓄積するでしょうね!!
by ゆき (2010-08-21 23:07) 

WhiteWolf

大和レポ、素晴らしい!
願わくば、この目で実物の大和を見てみたいものです・・・
叶わぬ夢ですが。
by WhiteWolf (2010-08-22 12:13) 

ゆき

WhiteWolfさんへ♪
僕も大和をこの目で見てみたいです!
大和の甲板は靴を履いて上がるには勿体ないほど奇麗に
磨き上げられていたそうです(*'-'*)

by ゆき (2010-08-22 21:59) 

Jetstream777

戦艦大和、悲しい歴史ですね。 よく調べられましたね!
by Jetstream777 (2010-08-22 23:01) 

寿お父さん

大和、大きいですね。
ゼロ戦もすごい。
日本の技術力の証明ですね。
でも、戦争を考えると悲しくなります。
by 寿お父さん (2010-08-23 01:12) 

hatumi30331

戦艦大和、戦争・・・忘れては行けない歴史です。

ビールとグルメで、ホッ!
いやいや美味しそうですねえ〜〜。
グルメ探検も、さすが! またの冒険、探検を期待しています!(笑)
by hatumi30331 (2010-08-26 15:19) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。