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パワースポット!?それとも歴史のミステリースポット!?全国八幡総本山!宇佐神宮 [すいすぽでドライブ]

R10を南下中.JPG
現在R10南下中!


今回は最近話題のパワースポットを求めちゃいます!
今日のパワースポットは.JPG
目指すは全国四万四千社と称する八幡宮の総本社である宇佐神宮!
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社である。


本殿への道.JPG
宇佐神宮の主祭神は・・・

・応神天皇(おうじんてんのう)
・比売大神(ひめおおかみ)  
・神功皇后(じんぐうこうごう)

主祭神は八幡三神と呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一の御殿)、
比売大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、
神功皇后(三の御殿)の三柱の神が上宮・下宮に祭られている
比売大神は宗像三神のこととされる。



創建
神亀2年(725年)

本殿の様式
八幡造


おててを奇麗奇麗しましょう.JPG
手をキレイにして、パワースポットへ。


梅の花びらも春が待ち遠しそうです(#^.^#)
バイクのシーズンが近づいています.JPG


IMG_1973.JPG
IMG_1971.JPG
なんて読むのか解らないけど、いい感じの場所めっけました\(^o^)/
こんなところにテーブルと椅子を並べて軽食屋やったらお客さんがきそうだねぇ♡
(でも、夏場は蚊の餌食だね・・・)


春宮神社.JPG
応神天皇の子神を祭る春宮神社。


参拝順路.JPG
奇麗な石段を登っていきます。
寒い季節ですが、緑が生い茂っていて神秘的な雰囲気が漂っています。


でね・・・本殿へ行くこの石段の途中でアレ??って思った事がひとつあります。
宇佐神宮の主祭神。
比売大神(ひめおおかみ)。
何かどっかで似たような名前を聞いた事があるなぁ。
(もちろん神様に知り合いなんかいないよ)


確か、姫島七不思議ツーリングのときに出てきたお姫様が
比売語曽神(ひめこそのかみ)っていう名前で、いたるところに伝説をのこしてたなぁ。


(比売語曽神=阿加流比売神なのは記紀により名称が異なる為)
比売語曽神(ひめこそのかみ)又は阿加流比売神(あかるひめのかみ)は
大分県姫島にある比売語曽社(ひめこそしゃ)の祭神で現在の韓国南部にあたる地方の王子、
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の求婚から逃れ日本に渡ってきた神様なのだそうです。
実際に姫島の比売語曽神は宇佐市の比売大神(ひめおおかみ)と同じ神様ではないのか?
という説が存在し・・・
更には、大阪府の難波には比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)があり、
比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)の祭神が下照比賣命(したてるひめ)と言います。
なんだか似た名前の神社、似た名前の神様が出てきましたが、神社の場所こそ
違えど、祭神はすべて同じ神様らしいのです!


例えば
『比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、
二箇所で祀られているという。』
という日本書紀の記述。この豊国の国前郡とは大分県の姫島を指し、
また古事記には、
『新羅から来た阿加流比売神が難波の比売碁曽の社に坐す』と記されており、
大分県姫島と大阪府難波の両神社の神様が同一であることを証明しています。
そして、問題の宇佐神宮の祭神である比売大神と姫島、難波、両神社の祭神は
『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)では下照比売社が比売許曽神社であると記されており。
比売碁曾社の主祭神は明治以降は牛頭天王から下照比売命に代わっている事から
この三ヶ所の神社の神様は同一の神様となるわけです!!
(・・・多分・・・)


そして、比売語曽神について調べていくとさらに面白いことが書かれています!


『記紀』において、卑弥呼の原像をもとに、
天上界ではアマテラス(天照)、下界ではシタテル(下照)ヒメとして記載したとの説もある。
そういう意味で、シタテルヒメは卑弥呼をより実像に近い形で記されたものとも解釈できる。
というわけです!


『ゆきさんよ!わけのわからん説明ばっかりしてお前は最終的に何が言いたいのかよ!』
なんだかそんな声が聞こえてくるような気がします・・・。
結局わたくしが言いたいのは
宇佐市、豊前市を中心とした北部九州に、
卑弥呼を長とした日本史初の統一国家邪馬台国があったのではないか!?
と、言いたいわけなのですよ。


全国八幡の総本山である宇佐神宮・・・そこに比売大神が祭られている。
その神はどうやら卑弥呼と同一のものである。
どうです?ちょっとそれっぽくなってきたでしょ??


そして、さらに本殿へと向かうとさらなる歴史のミステリーに出会えます!
西大門.JPG
長い石段を登りきると西大門が待ちうけています。
この西大門を抜けると、宇佐神宮の本殿があります。



本殿.JPG
本殿は画面左から
一の御殿に応神天皇(おうじんてんのう)
二の御殿に比売大神(ひめおおかみ)  
三の御殿に神功皇后(じんぐうこうごう)を祭っています。


宇佐神宮説明.JPG


そして、参拝方法はコレ!
出雲大社と同じ.JPG
出雲大社と同じ参拝方法になっています!
(・・・おんなじだよね!?ちょい自身がないっす・・・)
僕はこの参拝方法の共通点に着目をしました!!
日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、
天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、
造営されたのが出雲大社の始まりであるという伝承が残されています。


天津神(天の神)から無理やり??取られちゃった国の変わりに建ててもらった神社。
そういう理由で宇佐神宮方式の参拝方法が伊勢神宮に伝わったのかも知れません。



一の御殿から応神天皇、比売大神、神功皇后の順にお参りする私ゆき。
『可愛い彼女!かわいい彼女!カワイイカノジョ!!』
神様に対して邪念をガンガン送っていると、もう一つの違和感に気が付きます。
やはり、二の御殿(真ん中)の立派なところが比売大神になっています。
この、不自然な配置からも、当時の比売大神がただ者ではない、
日本史初の統一国家を誕生させた卑弥呼本人だったのでは?と思うわけです!


宇佐神宮、比売大神、卑弥呼、邪馬台国と素人が面白半分に話を膨らませましたが
まったく、何の確証も証拠もないインディーごっこなので面白半分に見守ってください ブログにアップした本人も苦し紛れの言い訳、仮説を並べただけなので(-。-)y-゜゜゜

天念寺裏 無明橋 [すいすぽでドライブ]

いつもゆきのうろうろ日記を見てくれてる皆さんこんばんは!
そして、今日たまたま見てくれた方も、新たな出会いにこんばんは♡


今日はねぇ。朝一番にえらくびっくりした事があります!
バイオ並みにカラスが飛んでる!.JPG
見て!!映画版バイオハザードみたいに空一面にカラスの群れ((+_+))
多分、あいつらウィルスに侵されとるよ!!


じゃなく、最近僕の体のとある異変に危機感を覚えたので、豊後高田に車を走らせています!!


事件は一般の警察機関にお任せ.JPG
汚い小さなお店に強盗でも入ったのか、お巡りさんが
パトカーをぶっ飛ばしてここに集結してました!


まさに僕の体の異変と、この危機感にマッチしています!


気になるからだの異変・・・それは・・・


ビールっ腹になっちょる!!


って事なので・・・
秘境のお時間です♪.JPG
シェイプアップの意味も込め、秘境の橋を渡りに行きました!!


目的地は大分県豊後高田市にある、天念寺裏(?)の無明橋です(^_-)-☆
途中のトイレ休憩でおっかない伝説を発見しました(@_@;)
そりゃ誰でもビビるよ!.JPG
この先が吉名川.JPG
えらくスプラッタな伝説です(T_T)


今日の目的地に到着しました\(^o^)/
あ!あれだ!!.JPG
また高い所にある!.JPG
今日もタケェ~所に架かってるなぁ・・・(;一_一)
い・・・いかん!!シェイプアップの為だ!!


ここが入り口だよ.JPG
いざ!無明橋!!
この写真の所から登ります♪


今日はちゃんと動きやすい格好で来たけど・・・
目立たない.JPG
ドイツ連邦軍のフレクターカモは迷彩効果抜群です!
登山にこんな目立たない服装だと、遭難したり、事故った時にやばいかも!



鬱蒼としたジャングルを進むと、我々はぁ先住民族の信仰の対象を発見した(>_<)
沢山並んでる.JPG
一人藤岡弘探検隊ごっこだ!


のたれ死にごっこ.JPG
登山道の途中でのたれ死にごっこ(>_<)


断崖絶壁の予感.JPG
この先は断崖絶壁の予感がします!!


地籍調査してる人の荷物だね.JPG


道幅せまっ!.JPG


細い道の後は岩壁だ!!
また鎖の出番だ!.JPG
無明橋への道にこの鎖は欠かせないぜ!!


この岩は垂直に近いです!.JPG
登った後は下り!
天念寺の無明橋はアップダウンが激しいです!


しばらく登って一休みします♪
ちょっと一休み.JPG
冷たい風が気持ちいいです♪
遠くから日出生台演習場で実弾演習をしているのか
ドーォォン!ドーォォン!と雷のような低い音が聞こえました。
外国人が日本の土地で大砲ぶっ放してるのは気分のいい話じゃないけど
色々複雑な事情があって、良いも悪いも全部ひっくるめて僕達の
日々の平和は守られてるんだろうね。


アレコレ考えながらの休憩もほど程に先へ進むと、とある選択を迫られます。
崖を登るか、崖に沿うか.JPG
分かれ道だ・・・ん??左の方向は道というのか??それとも壁というのか??
流石に普通右の道を選ぶやろぉ!








登ります♡.JPG
でもやっぱこっち♡
(あんたも好きねぇ♡)
気分はすでに藤岡弘の探検隊であり!誰もが一度はあこがれたインディー・ジョーンズ博士なのだ!!
もう誰も俺を止められないぜ!!


・・・とまった・・・
落ちたら死ぬ!めちゃ怖いよ!!.JPG
マジたけぇ~!!
落ちたら絶対しぬぅ!!
背後に生い茂る木々は中途半端に小さく見える!!


・・・
・・・ ・・・
・・・ ・・・ ・・・。
登りきったぞォ!!.JPG
うらぁー!!のぼりきったぞぉ!!
手前から伸びる心もとない鎖とごつごつした岩にどれだけ必死にしがみついた事か!



ひぃぃん!高いよぉ・・・.JPG
さぁ、こんな高くて怖い所からはさっさとオサラバし・・・


ひぃぃん!高くて狭くて風邪強いよぉ!.JPG
なんじゃこりゃぁー!!
おっとっと!ちょっと足を踏みはずしちまったぜ!
じゃすまないよ!!


デンジャラスな道なき道を進むと、僕の目の前にその姿をあらわしました!
無明橋だ!!きたぁ!.JPG
やったぁ!ついにここまで来たんだ!!
・・・でも待ってよ・・・


お・・・落ちたら死ぬ!.JPG
あわわわ!横風が怖いよぉ!落ちたら痛いよぉ!!


そして、無事渡り切りました!!やたぁ!!
生きて帰りたいので、真剣に拝みます!
生きて帰りたいです!.JPG


俺はビールっ腹でもちゃんと生きてるぞぉー!
無明橋からの風景.JPG


やばい所に架かる橋.JPG


ん??あんな所にお社??があるぞ!
あんな危ない所にお社がある!.JPG


じゃぁちょっといってみよう。
行きも帰りもこんな感じでした.JPG
ひぃ!横風が!!
飛び降り自由!左右OK牧場.JPG


慎重に降りるっす.JPG


恋人が欲しい!.JPG
生きて帰れた時のお願いもしておかなきゃ!!


スイフトがちっちゃい!.JPG
お社の裏は絶好のスナイピングポイントでした!
(いのししでも狙撃するの??)
僕のスイフトスポーツがあんなに小さく見えます♪
(誰!?今指でクシャって潰せそうなんて言ったのは!)


マッターホルン登山部.JPG
もうここまで秘境にはまったら結成するしかないでしょう!!
ゆきのマッターホルン登山部!!
夢のまま終わるんだろうけどさ(泣)
冬の寒い間はバイクの変わりに山に登って、夏の熱い間はケイビングでもしようかな♪


一通り登ったり転びそうになったり、ビクビクしたのでそろそろ下山します。
秘境の道.JPG


誰がふかわカットや!.JPG
高いトコが苦手で、ビビリなサモハン・キンポーが慎重に下山します♪
(誰がヘアスタイルそっくりじゃぃ!)


途中の道でかくれんぼしちゃいました☆
さて問題!
僕はこの画面の何処にいるでしょう??
ど~こだ??.JPG





正解は
コピー ~ ど~こだ??.JPG
みんな解ったかな??


やっと平地に降りてきたので安全運転でおうちに帰りました♪
お願いしておいた生きて帰ってくることは叶ったので、
次は恋人かぁ♪
願いが叶うと良いなぁ♪


秘境の地!無明橋はここにあります!
さぁ行こう!冒険のたびへ!
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=lPkGBnrEmNAVuPLWsSkiyk0r0IOi2HuOZhbA


残す無明橋はあと2つ!!
高い所が苦手なゆきが勇気を振り絞り今日も霊峰へ挑む!!
尻.JPG






四国!お城と廃墟と秘境の地探検!~四~ [すいすぽでドライブ]

みなさんこんばんは☆
秘境とお城と武将が大好きな歴女の見方ゆきでございます(^_-)-☆
四国の旅も第四弾となりました!
長かったですねぇ(>_<)
しつこかったですねぇ(*_*;
特にいろんな説明が長かったですねぇ(T_T)


うんうんって共感しているそこのあなた♡
今宵は今が旬の坂本龍馬様をじっくり掘り下げていくのでよろしくね(^_-)-☆
もちろん今日の説明もめちゃ長いよ!
(またかよ!!)


ってことで、僕はこの日、高知県の桂浜に足を運びました\(^o^)/
もちろん目的はコレ!
13mか14mくらいある・・・ぜよ.JPG
坂本龍馬・・・ぜよ.JPG
全長14m・・・だっけ?はあるといわれる坂本龍馬像を見るためです!
1/1ガンダムサイズの龍馬像は圧巻です!


皆さんは高知県が生んだ風雲児、坂本龍馬についてどのくらいご存知ですか?
僕は正直、外国の武器を売ってる人くらいしか知りませんでした(*^_^*)
では、歴女も大好き!幕末を駆けた坂本龍馬のご説明!
はじまりはじまりぃ\(^o^)/


坂本 龍馬(さかもと りょうま)、
天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、
日本の武士(土佐藩郷士)、明治維新に影響を与えた政治家、
グラバー商会(ジャーディン・マセソンの日本代理販売店)代理人として武器輸入に関わった実業家。

土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、
薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。
贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、
国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。

諱は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。

むしろ生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、
小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、
それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘は多い。
歴史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格。
ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、
平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的。


生涯
生誕地の高知市

坂本龍馬座像
天保6年(1835年)11月15日(グレゴリオ暦で1836年1月3日)、
土佐国土佐郡上街本町筋一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に生まれた。
弘化3年(1846年)、母・幸が死去。
12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。
14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。
嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸(東京都)に出て、
北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の
千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。
12月には佐久間象山の私塾にも通っている。
安政元年(1854年)に土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。
安政2年(1855年)、父・八平が死去。
安政3年(1856年)、再び江戸・小千葉道場に遊学。
安政4年(1857年)、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
安政5年(1858年)、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝。
文久元年(1861年)、3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、
龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。
半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、
龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。
10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年1月、萩で久坂玄瑞と面談。2月末に帰国。
萩からの帰国後、1ヶ月もたっていない文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。
その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、
当初は龍馬が実行犯として疑われた。
龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。
その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。
春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる。
文久3年(1863年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、
操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。
勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。
この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。
八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。
藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。
元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が創設された。
龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく
蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。
池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、
海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。
勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って
大阪の薩摩藩邸に保護される。
慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。
この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。
薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、
物産・武器の貿易を行った。
龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く
信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の
信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。
この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、
長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている。
慶応2年(1866年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と
薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。
このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。
天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、
彼がいかに信を得ていたかがわかる。裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃されたが、
一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。
6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号
(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で
長州藩海軍を支援。
慶応3年(1867年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。
4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて
土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。
12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。
明治4年(1871年)、8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、
綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。


暗殺

坂本龍馬像(高知県の桂浜)
第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。

龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて
河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、
画家の淡海槐堂などに訪問されている。
中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。
龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。
龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。
中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。

死後の評判
前述の通り、坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物である。

その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に
坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が掲載され、大評判となった事である。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。
日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。
皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、
龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。
真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。

その他
京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。
それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った『梅椿図』という作品である。
付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。

逸話
寺田屋事件で左腕を負傷し、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。
龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、
父・八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)といわれている。
龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、
当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、
長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、
世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[15]。
当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、
龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、
納得した旧友は短い刀を差すようにした。
次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し
「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。
納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。
三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し
「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
もはや旧友はついていけなかったという。
これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで伝説であって史実ではない。
話の起源は、定かではない。
寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、
同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。
これを指して、日本で初めての新婚旅行とされる。

S&W モデル1龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。
ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径で、
寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、
後に買い求めたのがS&Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、
薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、
発砲することなく殺害されている。

幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、
「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm)と
江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。
なお、他の研究では174cmや169cmという説もある。
背中に黒毛が生えていた。
少年時は寝小便タレで、泣き虫。勉強についていけず塾を退塾になった。
武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていた。
西郷に対し「わしは世界の海援隊をやります」と語り、
その様子を同席していた陸奥宗光がことあるごとに回想して語ったとされている。
しかしこれは後世の創作とも言われている。
龍馬は脱藩後に継続的に接触したトーマス・グラバーの影響を強く受けており、
薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。
グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、
グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、
彼個人の資質よりも、
彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、
という主張がある。
長崎のグラバー邸には、龍馬ら脱藩志士を匿って住まわせたとされる隠し部屋がある。
龍馬は階級的には土佐藩の武家の最下層にあたる郷士であったが、
本家の才谷屋は土佐有数の豪商であり、下手な上士よりは裕福な家庭環境にあった。
いろは丸沈没事件の際に、紀州藩に対しミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊や
陶器など4万7896両198文を積んでいたと主張しそれらを弁済させた。
しかし、近年行われた調査では、
坂本竜馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている。

同時代の龍馬評
住谷寅之介
「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
平井収二郎
「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
東久世通禧
「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
勝海舟
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。
その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。
龍馬の度量や到底測るべからず」
土方久元
「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、
また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
三吉慎蔵
「過激なることは豪も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。
容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」


家族・家系
京都府霊山墓地坂本家は清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、
明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔を称する 。
坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来している。
しかしこれは後世の創作だろうとする声も強い。家紋は「組み合わせ角に桔梗」。

一方で、龍馬自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。
墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。

坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、
「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、
長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。

天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎず、
3代目太郎左衛門までは公認の名字をもたぬ百姓身分と考えられる。
2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。
4代目守之、5代目正禎は才谷村の字の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

寛文6年(1666年)、3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、
酒屋、呉服等を扱う豪商となる。
享保15年(1730年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。
明和7年(1770年)、6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、
名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。
次男直清には商家才谷屋をつがせている。
郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本覚右衛門の次男としてうまれ坂本家へ養子として入った。
直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はおりょう(楢崎龍)、また千葉さな子は婚約者だったといわれる。

郷士坂本家は5代当主の直寛の時の1897年に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、
現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。


どうです?坂本龍馬は単なる武器の貿易だけじゃないってわかりました?
(おまえがいちばんわかってるのか?)
もしかしたら明智家の末裔かも知れない!!
う~ん(#^.^#)歴史のミステリーやロマンを感じますね♡


桂浜に来ました!.JPG
彼の坂本龍馬もここで日本の行く末を本気で思っていたんでしょうね!
ではみなさん。今日の歴史のお勉強はこれでおしまいです(^_-)-☆
お疲れさまでした
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四国!お城と廃墟と秘境の地探検!~参~ [すいすぽでドライブ]

時代はすでに公家社会へと変革を待たれていた。
まさに平氏は、その武力と政治力により瞬く間に権勢の中心に座した。
しかし、貴族志向型の権力は、ともすれば雅やかさを求めて弱体化し、
新たなる勢力によりその座は奪われる運命となる。


GENJI VS HEIKE COMING SOON


更に更に続く四国の旅!
私、ゆきはとうとう徳島県は三好市祖谷山村へやってきました♪
そんな山奥に何しに来たんだよって??
今回ぼくはこの秘境に平氏の息吹を感じにきたのです!!


その場所がこの平家屋敷という場所なのです!
平家屋敷.JPG
平家屋敷の説明だよ.JPG


治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)
平安時代末期の治承4年(1180年)から
元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。
後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に
各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。
最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも
平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした
主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。


一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」
あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、
こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。


背景
平氏の隆盛
平安時代の末期、皇族・貴族内部の権力闘争が、
保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。
こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、武士の身分でありながら異例の栄達を遂げ
(平清盛の実父が白河法皇だったためとする説もある)、
仁安2年(1167年)には太政大臣となる。
平氏一門は主要官位を占め、多数の知行国を得て、事実上の平氏政権が成立した。

鹿ケ谷の陰謀
平清盛一族(平氏)の隆盛は、旧来の勢力である他の貴族や皇族の権益を圧迫した。
武士身分出身である平氏への嫌悪も手伝って、
貴族層を中心に平清盛政権への反発が密かに広まった。
これが具体化したものが、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀である。
陰謀は程なく発覚し、荷担した貴族や武士(多くは後白河法皇の近臣)が追放された。
この事件以降、平氏政権と後白河法皇の関係は急速に悪化した。

治承3年(1179年)11月に平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、
翌年2月、高倉天皇が言仁(ときひと)親王に譲位(安徳天皇)。
平氏政権は盤石の体制を築いていった。

治承4年(1180年)、皇位継承がほぼ絶望となった以仁王が、
摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、
平氏追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を源行家に持たせ,
全国各地の源氏に挙兵を呼び掛けた。
しかし,挙兵直前に紀伊熊野の親平氏方(権別当湛増を中心とした本宮勢力)と
親源氏方(行快を中心とした新宮・那智勢力)との熊野新宮合戦があり、
その後、権別当湛増からの平氏への注進により平氏追討の企てが発覚した。
以仁王らは、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍の攻撃を受け、
同年5月,宇治の平等院で源頼政一族は敗死し以仁王も死亡したが、
この挙兵が後6年間にわたる内乱の契機となった。

関東武士団の挙兵
以仁王敗死の直後から、
以仁王への同調者らによって令旨が各地に雌伏する河内源氏へと伝達された。
そのうちの1人である源頼朝は、
6月末頃から河内源氏累代の家人とされる相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めて、
8月17日には、伊豆在住の山木兼隆を襲撃して殺害する。
その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦して頼朝軍は惨敗する(石橋山の戦い)。

頼朝は、海路で安房国へ移動して相模三浦半島の豪族である三浦氏と合流した後、
安房の在庁官人をはじめ房総半島の上総広常、千葉常胤、武蔵の足立遠元、
畠山重忠らの諸豪族を傘下に加えながら急速に大勢力となっていく。
この勢力の大部分は、関東一帯に勢力をはる平氏系武士であり、在地領主でもあった。
当時、武士身分の領地所有は不安定であって頼朝軍への急速な武士の集結の背景には、
武士による権利確立への強い希求があったのではないかと考えられている。
10月6日、頼朝は先祖のゆかりの地である相模国鎌倉へ入って本拠地とする。
これにより関東政権(後の鎌倉幕府)が樹立する。
また、この時までに関東政権は関東南部の実質的な支配権を獲得している。

富士川の戦い
同時期に、関東では甲斐源氏の武田信義も挙兵していた。
関東での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。
追討軍は東海道を下り、10月18日、駿河国黄瀬川で源頼朝、武田信義の関東連合軍と対峙する。
大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、
目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。
これに乗じて頼朝は上洛も検討するが、
関東政権の大勢は東国経営の優先を望んだために鎌倉に帰還した。
その後、頼朝は巨大となった武士団を統率するため侍所を新設し、
和田義盛を別当、梶原景時を所司に任じる。

関東経営
当時の関東の武士にとって、最優先事項であったのは関東内部の政治的安定である。
京都の中央政府への復帰を目指していた頼朝とは目的を異にしていたものと考えられている。
頼朝には、自らの支持勢力の権利を確保することが求められており、
実際に頼朝は、志田義広、新田義重、
佐竹氏や足利忠綱といった関東在住の非支持勢力を排除するか、
もしくは、屈服させることに非常に尽力している。

地方武士団・源義仲の挙兵
関東以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。
土佐の源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内石川の源義基・義兼父子、
美濃の土岐氏、近江の佐々木氏、山本義経、熊野の湛増、伊予の河野氏、
肥後の菊池氏らのほか、若狭・越前・加賀の在庁官人など、多くの勢力による挙兵があった。

頼朝の挙兵と同時期の治承4年(1180年)9月、
信濃の源義仲(木曾義仲)が挙兵し1181年6月横田河原の戦いで勝利を収め、
信濃から越後を席巻した。一時は上野まで進んだが頼朝とは合流せずに北陸方面へ転進する。
その後、義仲を頼って来た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、北陸一帯を平定した。

清盛の死
畿内においても寺社勢力を中心に反平氏勢力の動きが活発化していた。
それを封じるため、治承4年(1180年)12月、
平重衡は東大寺・興福寺を焼き討ちにした(南都焼討)が、
より一層、平氏への抵抗を強める結果となった。
治承5年(1181年)1月には、紀伊の熊野三山勢力が挙兵して、
伊勢や志摩で平氏側勢力と交戦するという動きもあった。

そうした中の同年閏2月に、平清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失う。
しかし、直後の3月、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、
尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。
この結果、源氏軍による東海道方面の進撃は一時中断することとなる。
しかし平家はこの年から活発化した北陸の反平家勢力の蜂起は見過ごすことができず、
8月に平通盛・経正を将とする軍を派遣する。
しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に、
兵糧不足になやまされた平家は北陸地方の反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。

この年、京都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに治承の元号を用いた。
この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、
平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先し、
源氏軍も頼朝が未だに平治の乱の赦免を受けておらず、
上洛のための政治的・軍事的条件を整える時間が必要であった。
九条兼実の日記『玉葉』にはこの年の8月1日条にて、
先頃後白河法皇の元に頼朝の密使が送られたことを記している。

中期
源義仲の上洛
源義仲の勢力を討つために、寿永2年(1183年)4月、平氏は平維盛、
平通盛率いる大軍を派遣する。
平氏軍は越前、加賀の反乱勢力を破って5月には加賀・越中国境の倶利伽羅峠で
義仲軍と対峙したが敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。

義仲軍は、北陸宮を推戴しながら京都へ進軍して源行家、
多田行綱(源行綱)、安田義定(源義定)らの多方面攻撃によって平氏の京都防衛線を破る。
そして7月、平宗盛を中心とする平氏一門は、
安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。
義仲軍は上洛を果たす。当初、後白河上皇以下、
貴族から庶民まで義仲の入京を歓迎したが、
前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して
義仲軍は市中で略奪や狼藉を始めたために義仲の評判は落ちて、
源頼朝の上洛を願う声が高まっていく。

同年9月、義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立して
閏10月に義仲軍は備中水島で平重衡率いる平氏軍に敗れる(水島の戦い)。
これにより山陽道の平氏勢力が盛り返して義仲は連敗しながら京都に帰還する。

寿永二年十月宣旨
頼朝は、後白河法皇から上洛を催促されたが、
鎌倉に留まって逆に法皇へ東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように、
国司・本所へ返還させる内容の宣旨発布を要請する。
その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、
ほぼ上記の内容を認める寿永二年十月宣旨を頼朝へ発して
東海道・東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)が頼朝に認められた。
頼朝は、既に実質的に東国を支配していたが、この宣旨発給は、
頼朝が東国支配権を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。

義仲の滅亡
一方で、頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国の年貢の納入を実行すると称して
源義経らを上洛させた。義経軍は11月初めには近江まで到着していた。
その間、山陽道で敗北を重ねていた義仲は、京都への帰還した。
直後に法皇との関係が決裂し共に上洛した味方の離反もあり孤立感を深めていった。
11月19日、義仲は後白河法皇を幽閉し、
摂政近衛基通や院の近臣を更迭した後に松殿師家を摂政に任じるクーデターを行った(法住寺合戦)。
この結果、法皇と義仲の連携が成立して12月に法皇は義仲に頼朝追討の院宣を発した。そして翌3年(1184年)正月、義仲は征夷大将軍(または征東大将軍)に任命された。
これは緊急時における政治大権を武士に付与することを意味する画期的な事件でもあった。

このような情勢下、鎌倉の頼朝は弟の源範頼と源義経を大将軍とする軍を上洛させ、
1月20日、範頼軍と義経軍は、
それぞれ京都近郊の勢多と宇治で待ち受ける義仲軍と交戦して勝利し(宇治川の戦い)、
義経軍はそのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。

後期
一ノ谷の戦い
義仲の滅亡に至るまでの間、
平氏は勢力を立て直し寿永3年(1184年)正月には摂津福原まで戻っていた。
京都に駐留していた範頼・義経軍は、
後白河上皇による平氏追討の宣旨を獲得して京都から福原へ向かう。
範頼・義経軍は二手に分かれて平氏軍を急襲する。
激戦の末、平氏軍を海上へ敗走させた(一ノ谷の戦い)。
この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。

屋島の戦い
一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。
鎌倉政権軍は水軍を保有しておらず、四国攻めを決行できなかった。
源氏方は水軍編成のために、平氏方は兵力再建のために暫く休戦が続いた。
半年が経過した8月、範頼軍は平氏軍を背後からつくため山陽道を進軍したが、
長く延びた戦線を平行盛によって分断された。
また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥った。
元暦2年(1185年)、範頼軍は平氏の背後を突くべく九州攻めを行ったが、
思わしくない戦況に頼朝は義経へ平氏追討の命令を出した。
同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、
在地武士を味方に引き入れて陸路屋島の平氏本陣を攻め落した(屋島の戦い)。

壇ノ浦の戦い
屋島の戦いの後も、
瀬戸内海を中心に小規模な戦闘が続いて両者とも一進一退を繰り返していた。
しかし、範頼軍に援軍が来るという情報を得た平氏軍は長門へ撤退する戦略を選択する。
この結果、平氏軍は関東政権軍へ瀬戸内海の制海権を明け渡すこととなり、
熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、
河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と鎌倉政権へ味方した。

元暦2年(1185年)3月24日、
関門海峡の壇ノ浦で平氏軍と関東政権軍の間で海戦が行われた(壇ノ浦の戦い)。
午前6時頃、平氏軍からの攻撃により戦いは始まった。
序盤は平氏が優勢であったが、正午過ぎから平氏が劣勢となっていく。
阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、
平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。
この戦いで平氏は滅亡した。

意義
平氏政権の排除
乱の以前、平氏政権は主要官職を占めて多くの知行国を保有していた。
このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(皇族、貴族、寺社)により
平氏政権の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、
旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。

武士政権の成立
旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、
その力を持っていたのは武士層であった。
当初、関東や北陸で勃興した反平氏勢力は、
旧勢力の期待するところであって平氏政権を排除した後は、
それまでの歴史の通りにいずれ中央政府に帰順するものと考えられていた。
しかし、これらの反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、
本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。
旧勢力にとっては、武士はあくまで家人であって対等の相手として扱う対象ではなかった。
そのため、旧勢力は東国武士たちの本音を読みとることができずに
目先にある平氏打倒という目的のため、
寿永二年十月宣旨の発給や源義仲の征夷大将軍への任命などといった、
武士への大幅な権限委譲への道を開いてしまう。

そして、結果的として鎌倉幕府の成立がもたらされる。
草創期の鎌倉幕府は、東国の支配権を有するのみだったが、
それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。

だが、創成期の武家政権と既存の朝廷勢力の権限を巡る駆け引きと緊張関係は引き続き存在し、
その一応の解決をみるのは承久の乱以後の事である。

「源平合戦」という呼称について
治承・寿永の乱は、源平合戦(または「源平の戦い」)と呼ばれることも多い。
この争乱が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、
平氏政権から頼朝政権(鎌倉幕府)に交代したこと、
民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から
清盛・宗盛ら平氏一門と頼朝・義経・義仲ら源氏一門の争いと受け取られてきたことなどが、
この呼称を生んだといえる。

しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、
単純に源氏と平氏の争いとは言えない。この乱には熊野勢力や興福寺、
園城寺などの寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、
内乱前期においては北陸の在地豪族(義仲とは別個に挙兵)や
九州の在地豪族など源平という氏族に無縁の勢力も数多く蜂起している。
また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、
命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。
更に、平氏政権も頼朝政権も共に「院政の克服」という歴史的課題を背負い、
その中から生じた政権であることなどから、歴史学上はこの呼称は適切とは言えず、
年号を付して呼ぶ方が妥当であるとされる。

また、「源平合戦」の呼称は、氏族を強調するあまり、
源氏と平氏の氏族内のねじれ関係をうまく説明できない。
確かに、甲斐源氏の武田信義や木曾の源義仲など、
反平氏の掛け声のもとに挙兵をした源氏一族は多い。
しかし、源氏一族に属していても、
平氏に縁(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。
このことは平治の乱において、
摂津源氏の源頼政が河内源氏の源義朝とは完全に別行動を取っていることからもうかがえる。

源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。
父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、
去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。
一族相克の物語は戦国時代に多いが、この時代に既に始まっている。
武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、
この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。

源頼朝に従った平氏
北条時政、熊谷直実、畠山重忠、梶原景時、三浦義澄、千葉常胤、上総広常など多数。

平宗盛に従った源氏
新田義重、志田義広、佐竹秀義、源季貞など。


源頼朝 みなもとのよりとも
源義朝の三男として生まれる。兄2人が亡くなったので、正式な跡取りとなる。
1159年、平治の乱で平家に捕らえられるが、清盛の母に命を救われ伊豆に流される。
1180年、20年かけて東国の武士達を味方につけ、相模国鎌倉に源氏の本拠地をつくる。
1192年、平家を滅ぼした後、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開く。

北条政子 ほうじょうまさこ
伊豆に流された頼朝の見張り役、北条時政の気丈な娘。
当時平家の味方だった北条家、親の反対を説き伏せて結婚。頼朝を後ろから支える存在となる。
頼朝の死後、尼になったが、北条氏一族と共に幕府の政治を行ったので、「尼将軍」と呼ばれる。

源義仲 みなもとのよしなか
義経、頼朝のいとこにあたる。木曾に住むので「木曾義仲」と呼ばれる。
志同じく平家を倒す為に兵を上げる。
平家を追って都に入るが、部下が乱暴を働くので嫌われる。
朝廷の政権争いに巻き込まれ、義経・範頼に負われる事になる。

常盤御前 ときわごぜん
義経の母。とても美しい女。平家に捕らえられた時、
清盛の愛妾となり義経ら3人の子供の命を救った。

静御前 しずかごぜん
義経の寵愛を受ける白拍子。
奥州に落ち延びる義経とはぐれ、頼朝に捕らえられる。
鶴岡八幡宮で義経を恋慕う舞を踊り、頼朝の怒りに触れ、生まれた子供を殺されてしまう。


長い長い説明を読んでいただきありがとうございました♡
というよりもお疲れ様でした!
どうでした?平家の栄華と衰退の過程は。
まさにツワモノどもの夢のあと・・・


昔の台所.JPG


田舎の屋敷です.JPG


太刀のつば.JPG


平家の赤旗.JPG


それから次に向かったのは祖谷川上空14mぬゆれるつり橋であるかずら橋に行ってみました。
かずら橋はサルナシなどの葛類を使って架けられた原始的なつり橋です。
有名な歌らしいよ.JPG


で、これがかずら橋です!
これ渡ります!.JPG
かずら橋入り口.JPG
来たぁ~!!秘境の地ぃ~♡


祖谷のかずら橋の場合、古文書によると、かつて七つないし十三の橋が存在したといわれています。
起源はその昔弘法大師が祖谷に来たときに困っている村民のために架けたとか、あるいは
平家の落人がこの地に潜み。追手が迫ってもすぐに切り落とせるように葛を使って
架設したとの伝説もあるが定かではない。


かずら橋.JPG
インディー・ジョーンズになった気分♪


足ズボってなるよ!.JPG
足元の板はスカスカでズボッ!ってなるのには要注意です!
それにしても四国の川はめちゃめちゃ奇麗です!


まさに秘境の地!.JPG
四国っていいところだなぁ♡


わたりきった後は温泉に入りました♪
秘境の湯.JPG
つい名前に惹かれて入りました♡


ゆっくりまったりいい湯です.JPG
入浴千円は高いけど、この日別子銅山で潜入捜査をしていたので、疲れた身体に
染み渡る湯でした♪
平日でもあり、秘境(?)という事もあり利用者は僕一人!
貸しきり状態を満喫できました☆


栄華と衰退の道をたどった平家の架けた橋(?)
伝説とインディー・ジョーンズな橋はここだよ!
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/smap?mid=lPkGBnrEmNAVuPLWsSkiyk0r0IOi2HuOZhbA#detail:1:distance:10:::0:::33.87189993379:133.838101246986
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四国!お城と廃墟と秘境の地探検!~壱~ [すいすぽでドライブ]

一日目の朝は別府の弟の部屋から.JPG
三連休初日は別府に住む弟のアパートからの景色から始まりました♪
こんなに天気がいいとバイクに乗ってどこかへツーリングに行きたいけど
連休最終日は雨が降るらしいのでスイフトで旅行します。
「何処へ行ってきたのか?」って?


という事で始まりました題して!


『四国!お城と廃墟と秘境の地探検!』


廃墟大好きですねぇ♡
豊後高田で秘境にはまりましたね♡
よって、探検も大好物でありますねぇ♪


ひとまず、四国に渡るために佐賀関のフェリー(国道九四フェリー)へ向かいます
一路佐賀関へ.JPG


IMG_1429.JPG
佐賀関の港からは新日鉱製錬所が見えます!


あぁ~ん.JPG
着艦しまぁす!.JPG
ドッグ入り.JPG


ここで、弟からの受け売りですが国道197号線の豆知識!
国道197号線は陸路だけでなく海路にも存在する!
(へ~!!)
ブルースカイ.JPG
愛媛県の佐多岬から大分県に伸びるR197
僕が佐賀関から乗った国道九四フェリーの航路がR197なのだそうです!!
フェリーの名前にも国道と付くから納得です!


徐々に九州が遠のいていきます。
バイバイ九州.JPG
(見えてるのは大分県の工場地帯だよ)


四国・佐多岬.JPG
佐賀関から愛媛県の佐多岬までは70分!


四国は愛媛県に上陸!
佐多岬を気持ちよく走り抜けたどり着いたのが松山市です!
はい皆さん愛媛県の松山市と言えば??
『坂の上の雲』の街ですねぇ♪
それもあるし、松山城!!
今回は松山城の探索をいたします♪
(必死こいてたどり着いたのが15時半だったからあんまり探索できなかったんだよ)


ってことで、松山城にGO!GO!です♪
おっと!ここで忘れちゃないけないよ!


『俺は足軽だぁ~!!』
いくぞぉ~!
ぶぉぉ~!ぶぉぉ~~!!
(ほら貝の音ね!)


ケーブルカーとゴンドラ?ゴンドラでしょ!.JPG
最近の足軽は楽を覚えました!


城内へと続く道.JPG


大手門跡
大手門跡.JPG
慶長年間、松山城創建と共に築城され山麓の二の丸及び、堀の内へ通ずる重要な構えであった。


大手門跡から戸無門へいけます.JPG
大手門から戸無門へ続く風景


戸無門
戸無門.JPG
高麗門の建築様式で、慶長の創建当初から門扉がないので戸無(となし)門の名がある。
この門の手前にある太鼓櫓下の通路は、乾門方面(実は行止まり)と
戸無門方面へ敵を分散させるための迷路となっている。


「むむ!!天守閣はどこだ!!門に扉が無いのをいい事に喜んで飛び込んだのが運のつきか!?」



隠門
隠門.JPG
隠門続櫓
櫓門となっている隠(かくれ)門は、筒井門に達した敵の側背を襲うための
埋門(うずみもん)となっている。
隠門続櫓ともども小規模ながら、築城当時の面影を見ることができる。
なお、築城時は「尾谷三ノ門」と呼ばれたとの説がある。


「なにっ!背後から敵が!!何処からやってきたんだ!?それより早く筒井門を
破らないと袋のねずみだぞ!!」


筒井門
筒井門.JPG
本丸大手の正面の固めを構成した。
慶長年間築城に際し正木城から移設されたと伝えられ、脇戸附の櫓門である。


筋鉄門
筋鉄門.JPG
脇戸附の櫓門で、門の柱に鉄板が貼ってあるのでこの名がある。
櫓は天守閣と小天守閣の通路となっており、三ノ門を防衛する構えとなっている。


「ぶっとい丸太でガンガン破ろうとしても鉄板が貼られているからなかなか頑丈だ!
右上の櫓からは銃撃が!!」


筋鉄門を抜けるといよいよ天守閣.JPG


「前方に架かる廊下の銃眼からも攻撃が!!でも、ココまでこれば後は天守閣を駆け上がるだけだ!」


「城主加藤嘉明!!いざ勝負!!・・・できねぇ~!かわいすぎるぅ♡」
コミカル城主!!.JPG


「所詮、足軽は足軽かぁ~。せめて天守閣からの眺めを楽しませてくれ・・・」
天守閣からは松山の街が遥か遠くから見渡せます。
IMG_1540.JPG
天守(大天守)
創建当時には、現在、三重天守の建つ天守台に五重天守が建てられていたとされており、
1642年に3重に改修している。
それは、本壇がある標高132mの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため地盤が弱かったからとも、
武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれているが理由は不明である。
その三重天守も1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失し、
現在も保存されている大天守は、黒船来航の前年である1852年に、
石垣普請とともに再建工事が完了し、安政元年(1854年)落成した3代目で、
連立式3重3階地下1階構造の層塔型である。
幕末に親藩大名松平(久松)家により復興されたものであるためか普請の精度は高く、
建築材料には樟や欅また栂など一級と呼ばれる木材が使用されている。
五重天守である福山城天守(9間×8間)のものをしのぐ規模の切込みハギの石積み天守台(8間×10間)の内側に、地下1階が造られ、3重3階の木造内部には、
層塔型天守の特徴とも言える武者走りが各階に設けられており、
その内側である身舎(もや)には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳床仕様で、
かつ、床の間を設けている。
外部は1・2階に黒塗下見張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸などを配し、
屋根には千鳥破風や軒唐破風が付れられ、また、3階は白漆喰塗りで、
格子がない引戸窓の外には、格式を高める目的で実用でない外廻縁、
高欄が付けられている。なお、鯱を含め屋根は瓦葺である。
日本における最後の天守建築(桃山文化様式)であり、
現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、
丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられている。


松山城本丸
松山城本丸.JPG
松山城天守閣

通称 金亀城、勝山城

城郭構造 連郭式平山城

天守構造 連立式層塔型3重3階地下1階
(1852年再)

築城主 加藤嘉明

築城年 慶長7年(1602年)着手

主な改修者 松平勝善

主な城主 加藤氏、松平(久松)氏

廃城年 明治6年(1873年)

遺構 現存天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、堀

指定文化財 国の重要文化財
(大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、
戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟)

国史跡
再建造物 小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門、艮門東続櫓など

位置
北緯33度50分43.94秒
東経132度45分56.6秒


葵の御紋 付きの松山城天守内展示物

松山城大天守(右奥)、小天守(左)、紫竹門(左手前)

松山城戸無門(重要文化財)と太鼓櫓

搦手の守りの要である野原櫓と乾櫓

天神櫓(菅原道真を本壇で祀る)

松山城(まつやまじょう)は、四国・愛媛県松山市にある城跡。
別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。

概要
松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城である。
日本三大平山城にも数えられる。
現在、山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。
この中では、姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式で、
日本三大連立式平山城にも数えられる。
幕末に建築された大天守ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、
当時の土木技術としては特筆される深さ44mにおよぶ本丸の井戸などが保存されている。
敷地一帯は国の史跡に指定されており、建造物21棟は国の重要文化財に指定されている。
ミシュランの観光版(ギード・ベール)日本編では二つ星に選定された。
(現存12天守の解説は現存天守を参照のこと。
松山城天守の歴史と構造については、本項の文化財を参照のこと。)

歴史・沿革
江戸時代
1602年(慶長7年)、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、
     関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、
     麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した。
1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、
     松山という地名が公式に誕生した。

1619年(元和5年)、武家諸法度違反による福島正則の改易により、
幕府の命を受け、嘉明が広島城受領のため赴く。

1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、
蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。

1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に逝去し、
蒲生家が断絶する。そのため大洲藩主、
加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。
城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。

1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、
以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎える。

1642年(寛永19年)、創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。

1647年(正保4年)、寛永の鎖国後、長崎に2隻のポルトガル船が入港したため、
定行が家臣とともに海上警備に赴く。
この時に持ち帰った南蛮菓子の製法が、銘菓タルトの原型とされる。

1784年(天明4年)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。

1828年(文政11年)、藩主・松平定通が文武の振興のため、藩学の拠点として明教館を創設した。

1854年(安政元年)2月8日、時の藩主・松平勝善が天守本壇を落成させる。

1858年(安政5年)7月、幕府の命により、江戸の品川に砲台を築造する。

1864年(元治元年)6月、幕府の命を受け、禁門の変に出陣。
薩摩藩・桑名藩とともに長州藩と戦い、御所南門などの警備を行う。

1866年(慶応2年)6月、幕府の命により長州征伐に出陣。屋代島を占領するも、
速やかに兵を津和地島および興居島に引き揚げる。

1867年(慶応3年)、藩主・松平定昭幕府老中職となる(大政奉還により辞任)。


近代
1868年(明治元年)、土佐藩が松山城を受領・保護
(藩主は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免される)。

1870年(明治3年)、松山城三之丸が焼失。2年後に二之丸も焼失。

1871年(明治4年)、廃藩置県により松山藩から松山県となる。

1873年(明治6年)の廃城令による破却に本丸は遭わなかった。
主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられるが入札はなく、
解体のみ行われたようである(大蔵省所管)。同年、愛媛県が成立。

1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、
松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。

1891年(明治24年)、俳聖正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表する。
     また、1895年(明治28年)には、「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠む
     (JR松山駅前に句碑がある)。

1923年(大正12年)、松山城(本丸)が久松家へ払下となり、
そのまま松山市に寄贈され、以降、
     市の所有となっている。
     1933年の松山城放火事件や戦時中の空襲により
大天守を除く幾つかの建造物が火災で焼失。
戦後の昭和40年代から忠実に復元され現在に至る。

1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定される。


現代
1952年(昭和27年)に、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定される。

1955年(昭和30年)にはロープウェイが、
1966年(昭和41年)には平行してリフトがそれぞれ登城客の利便を図るため設置され、
360度開けた大天守からの眺望のよさもあり、
     松山市を代表する観光地となっている。

1989年(平成元年)に、松山城山公園が日本さくら名所100選に選定された。

1992年(平成4年)4月に、大井戸などの遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成。

2004年(平成16年)10月より行われていた大天守ほか
6棟の改修工事は2006年(平成18年)11月末に終了。
改修を記念して、大天守の「しゃちほこ」に「天丸」と「まつ姫」の
愛称が公募によって付けられた。
     また、改修工事中、江戸時代に侍を描いたと思われる、
     下見板裏の落書きが発見された(天守閣内に展示)。

2006年(平成18年)に、松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定された。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(81番)に選定され、
2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

2007年(平成19年)3月2日、情緒あるたたずまいが残されていることが評価され
     美しい日本の歴史的風土100選に道後温泉とともに選定された。

2008年(平成20年)1月、現存12天守スタンプ帳付きの松山城観光案内図の配布開始。

2009年(平成21年)3月 ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」に選定される。


はい!と言う事で、もうお城カテを作ったらどうなんだっ!!
ってくらい松山城についての説明ですが、今回紹介出来たのは
松山城のほんの一部で他にも二の丸、三の丸と庭園、城壁等
実際足を運び、いろいろな角度からお城の隅々を見学すると
文章以上に様々な発見が得られます!


四国!お城と廃墟と秘境の地探検!の一日目は松山城の見学で終了です♪
次回、四国!お城と廃墟と秘境の地探検!は
日本のインカ帝国!?別子銅山跡と平家が逃れた秘境の地
幕末の風雲児、巨大坂本龍馬像をお届けします♪


それでは、足軽ゆきに長らくお付き合いいただきありがとうございました!


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僕のブログを御覧の皆様へ [すいすぽでドライブ]

しばらく旅に出ます。
捜さないでください。
旅に出てます.jpg

PLANET OF THE APES~おさるの楽園~ [すいすぽでドライブ]

彼らの星は突如滅びた・・・
彼らの惑星は滅んだ.jpg


ほんの一握りの者達のみが惑星の崩壊を察知し、
惑星と運命を共にせずにすんだ。
彼らは広大な宇宙を旅し、ようやく新たな新天地を発見した。
新たな新天地・・・それは地球.jpg
78aae31b524655c4.jpg


その星の名は・・・
蒼く美しい星地球.jpg
『地球』である。


PLANET OF THE APES~おさるの楽園~


4c8e526ffdeca016.jpg
ようやく長い長い旅が終わり、また新たなストーリーが始まる。
彼らは自分達に適した土地を探し、地球の大地を踏みしめた。


いい加減前置きが面倒になったのでちゃんと書きます!
そうです!わたくしゆきと海人さんは矢方池廃トンネル潜入を終えた後
大分県の高崎山にやってきました!
高崎山自然動物公園は沢山のニホンザルを見学することが出来ます♪
そして、コレが奴らの骨格標本です☆
猿の骨格.JPG


単なる骨格だけなのに何故か逞しさを感じるのはこいつ、生前はどっかの群れの
初代総ちょ・・・いや群れのボスで名前はジュピターというお猿さんでした。


去年のお盆のバスツアーで天草パールラインホテルと親愛病院に潜入する前の案に
高崎山にフル武装して潜入し、電動ガン片手にサルと戦うという企画があった・・・
もちろんそんな企画は口にしただけですぐにぽしゃったけど・・・


P1030030.JPG
こんなヤツと10人前後の人数で戦えってのが間違いっしょ・・・
多分いくらTEAM ONE JOULEの精鋭集めても
部隊をバラバラに分散させられて、
無線越しに銃声と断末魔が・・・て落ちになるに違いないっす・・・


ここは平和な気持ちでお猿さん見学と行きましょう♪


高崎山は徒歩で5~6分登るコースと
入場料プラス100円で往復のモノレールに乗るコースがあります。


体力ない人はこっちに乗ります♡
おっさんはこっち.JPG


モノレールの待合室にはニホンザルの一年という
おサルのカレンダーがありました!
一月は恋愛真っ盛りョ♡.JPG
冬から春にかけては恋の季節なのだそうですよ!
油断してたらヤベェんじゃ!?
5年前海に釣りに行った時に、人懐っこい犬が僕に近寄ってきたんだけど、
そんとき後ろ足で犬が立ち上がったかと思うと、僕の右足にそのまましがみついてきて
メス犬と勘違いした行動を取っていました・・・


なんとも言えない記憶をよそに
体力のないおっさん二人をのせてモノレールは登り始めました♪
しゅっぱあ~つ.JPG


いたッ!.JPG
モノレールで移動中に発見!!


おサルが沢山いる広場に到着後、海人さんが真っ先に気が付いた香り
『野生のにほひがする!』


それにコレ!
危険!電流がとおってます!!.JPG
コレの下に立っているとパチッ!パチッ!って音がします。
海人さんに言われるまで正体がわからなかったけど、電流が流れているそうです。


ストーブの隣は特等席.JPG
冬場は蒔きストーブを炊いてるんだって!
やっぱり毛皮に覆われたおサルも冬は寒いんだなぁ♡


決まった時刻に係員さんがえさの生麦をまくとこんなに集まります!
生麦を食べる猿達.JPG


連猿.JPG


C群までいるそうです!.JPG
サルの群れは広大な高崎山にA群B群C群までいるそうで、単純に合計約1500匹はいそうな勢いです。
当然群れの中にはえさの時間でも山から広場まで下りてこないおサルもいるそうです。


こいつ結構疲れた顔してます.JPG
僕の背後で疲れた顔して座り込んでいます。
めちゃめちゃ近くでおサルを見れますよ!!


お客さん凝ってるねぇ.JPG


いっこだけ・・・.JPG
一つで我慢しな!!.JPG


兄弟??.JPG


どうです??可愛いおサルたちでしょ♡
何処と無く人間くさい場面もあり憎めないですよね♪


さて、僕らもそろそろお腹がすいたので、別府のゆめタウンで食事でもしましょう♪
いただきまぁす.JPG
バイキング=フードファイト!!.JPG
た!たおれる!!.JPG


沢山遊んで沢山食べた一日でした☆


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キリシタンと火山をテーマに長崎県を観光☆~その参~ [すいすぽでドライブ]

皆さんこんばんは(^O^)/
歴史と火山をテーマに長崎県の島原を旅してきましたゆきです(^^)v
今日のレポートがようやく完結編になります(#^.^#)


この日の天気予報は一応耳にしていました。
とても寒く雪が降ると・・・
『どうせ雪なんてちょっと降ってそれでおわりだろぉ~』
なんて天気予報を適当にききながしていたのですが・・・


予想とは裏腹に予報は的中(-_-;)
丸くてもちみたいなスイフトちゃんが降り積もる雪をかぶり
鏡餅みたいになってました(;一_一)


昨日遊んだ島原城もこの通り!
雪化粧.JPG


朝からノーマルタイヤでビビりながら凍結した道路をゆっくり、ゆ~っくり発進・・・
目的地は大野木場小学校です。
なんだゆき!小学生から人生やり直しか?って?
やり直せるもんならやりなおしたいっす(;一_一)
って、そうじゃなくってほら!
島原ラリー.JPG


火砕流に襲われた校舎です。
被災した大野木場小学校.JPG


火砕流に巻き込まれた教室.JPG


生徒のいない校舎.JPG
当時は火山灰が降り注いでいたのでしょうが、今は深々と雪が舞い散っています。


理科室.JPG
床板は全て火砕流の熱で焼け落ちています。


火砕流の高温で晴れ果ててしまったと思われたイチョウの木ですが
今ではしっかりあおい葉を茂らせるそうです!
被災から復活したイチョウの木.JPG


ダッシュで逃げてます!!.JPG


航空写真 当時の校舎.JPG



被災した大野木場小学校の説明はコレ!
被災したが学校の説明はコレ!.JPG


せっかく校庭に雪が積もっているので一時間目は外で雪遊びだぁ!!
雪遊び・・・.JPG
・・・寂しくなんかないやい(-_-;)


受けよ!この雪球!!.JPG
(マフラーの使い方が若干間違っています)


運動場で一人雪合戦で楽しんだ後に向かったのは
雲仙地獄です♪
雲仙地獄はキリシタンが激しい迫害を受け虐殺された場所であります。
が!!
ノーマルタイヤで雪山のアップダウンは危険を伴うので
目的地を天草四郎時貞最後の地
原城へと向います!
原城といっても城壁や天守閣は残されておらず、
城跡というヤツです。


これが三の丸
原城三の丸.JPG


そして二の丸
原城二の丸の看板.JPG
原城二の丸跡・・・何もねぇ.JPG


原城総攻撃の際、細川軍に破られた大手門
大手門跡.JPG


外的から城を守ったやぐら台石垣
櫓台石垣跡.JPG
櫓台石垣.JPG


非戦闘員である老若男女をかくまった空堀。
空堀 写真で見るより深いです.JPG


原城本丸
原城陥落後は幕府軍により徹底的に破壊された。
IMG_0942.JPG


原城本丸跡には一揆軍を指揮したといわれるキリシタン天草四郎時貞の墓があります。
天草四郎時貞之墓.JPG
天草四郎の説明はコレ!.JPG
ときめきメモリー.JPG
マフラーの使い方が違います.JPG
海に向かい祈りをささげる三体の像.JPG
一揆を起こし、籠城した天草四郎。
海沿いの岸壁にそびえる原城を取り囲むように外国の軍艦が砲弾を
400発以上撃ち込んだそうです。


厳しい圧制から自由を手に入れるべく戦った彼らの魂が救われますように。
本当は何を布教したかったのだろうか.JPG



天草四朗時貞


天草 四郎(元和7年?(1621年?) - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、
江戸時代初期のキリシタン。島原の乱の指導者とされている人物で、
幕府の攻撃による原城陥落により自害したとされる。
本名は益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ、時貞は諱)。
洗礼名は「ジェロニモ」もしくは「フランシスコ」。
一般に天草四郎時貞という名で知られる。
本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。


経歴
肥後国南半国のキリシタン大名で
関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣益田甚兵衛の子として
母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。
しかし、宇土郡江部村(現在の宇土市)
または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家は小西氏滅亡後浪人百姓として一家で宇土に居住したという。
その生涯については不明の点が多いが、
生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で
女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。
また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、
優れた教養があったようである。

小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、
神格化された人物であると考えられており、
さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いた等)を起こした伝説や、
四郎が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

島原の乱勃発の時は16才程度の少年で、
十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、幕府軍の原城総攻撃により
火の中で自害したと言われている。
実際には少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり
戦いを指導したとは考えられず、実質的な首謀者は庄屋や浪人たちで、
彼はその象徴として祭り上げられた性格が強い。
しかし、3万7000人とされる島原の乱の参加者が主と仰ぐカリスマ的存在であったのは確かである。

また死後に首を切断されて幕府へ送られたと言う話もあり、
首は長崎の原城大手門前にて晒されたとも伝わる。
そのとき幕府側には天草四郎の姿や素性の情報が全くなく、
原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者の山田右衛門作を除く)にされている為、
旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。
その為、首実検しようにもその首自体が天草四郎本人の物かどうかは最終的に分からなかったという。
一説には、幕府軍に捕えられた四郎の母は
「今ごろ四郎は白鳥になって伴天連の国へ向かっているでしょう」とうそぶいたが、
四郎の首を見せられると悲嘆して泣き崩れたとの事である。

四郎の秀頼落胤説は、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、
大坂夏の陣において死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠で、
豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられている。
豊臣秀綱という名があったと鹿児島での書物に記されている。

原城跡をはじめ天草、島原など複数箇所に銅像がある。又、後年民家の石垣から発見された、
四郎の母が建立したと思われる墓石も立っている。

家族 父:益田甚兵衛好次
母:渡辺伝兵衛女もしくは千束宗右衛門妹(よね、とも)
姉:福
姉:某
妹:万
また、尾張徳川家の蔵書などを所蔵する名古屋市蓬左文庫に収められていた
「天草陣雑記」において、四郎が妻帯していたと思われる記述が見つかっている。

四郎法度書 四郎法度書(しろうはっとしょ)とは、
一揆の指導層が原城内の一揆勢に対して寛永15年2月1日付、
「益田四郎 ふらんしすこ」名義で発布した文書。
無理やりキリシタンにさせられた者の赦免を認めるという松平信綱の通告に際して、
「天草四郎の意思」を示すことで一揆勢の動揺を防ごうとした。
一揆への参加を神の慈悲に応えるための奉公として捉え、
一揆からの離脱を戒めている。
現在、上天草市の天草四郎メモリアルホールに、複製が展示されている。

なお、2007年(平成19年)1月10日に放送されたNHK総合テレビの 『その時歴史が動いた』では、
「四郎法度書」の文言の意訳として
「いま籠城している者たちは来世まで友になる」との言葉が紹介された。




原城

原城(はらじょう)は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった城である。国の史跡。


沿革
島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。

有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、
元和2年(1616年)に松倉重政が日野江城に入城するが、
一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。
この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされる。

寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけての島原の乱の後に、
幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。

昭和13年(1938年)原城跡は国の史跡に指定された。
発掘調査の際には、鉛の弾丸やクルスの他、万人坑が出土している。




島原の乱

元和の一国一城令で廃城となった原城は、
寛永14年(1637年)に全国の耳目を集めることとなった。
世に言う「島原の乱」が勃発したのである。
島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、
また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。
この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し
約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。
小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、
組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。
一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。
幕府軍も1千人もの戦死者を出しながらも、
新手を投入しついに、寛永15年(1638年)2月27日から28日(新暦4月11日~12日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させた。
幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。
島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、
大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。



島原の乱勃発までの説明
島原の乱(しまばらのらん)とは
江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模なキリシタン一揆による反乱であり、
幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。
島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。
宗教戦争と見なすのが一般的だが、
それはこの内戦の一面しか見ていない(「勃発まで」にて詳述)。
この乱は一般に寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、
寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。



勃発まで
松倉勝家が領する島原藩のある肥前・島原半島と、
寺沢堅高が領する唐津藩の飛地である肥後・天草諸島の農民をはじめとする諸領民が、
百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、キリシタン迫害もあり、
さらに飢饉の被害も加わり両藩に対して反乱を起こした乱である。
キリシタン(カトリック信徒)の宗教戦争と殉教物語として語られることも多いが、
それらはあくまで一面でしかない。
なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、
貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など
諸産業の大規模経営者をも包括して指している。
さらに、一揆には有馬・小西両氏の浪人、
元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党などが加わっていたことからも、
一般的な「鍬と竹槍、筵旗」というイメージは正確ではない。

島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、
領民のキリスト教信仰も盛んな土地であった。
豊臣秀吉や徳川政権の時代に禁教政策がはじまると、
慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、
代わって大和・五条から松倉重政が入部した。
重政は徳川家臣団の中での地位向上を図り、江戸城改築の公儀普請役や、
彼が独自に計画したルソン遠征、さらには壮大な島原城新築のための過重な年貢の取立てに加えて、
厳しいキリシタン弾圧を始めた。
年貢を納められない農民や、改宗を拒んだキリシタンに蓑を着せ火をつける「蓑踊り」や、
水責め、雲仙岳の噴火口に投げ込むなどの残忍な拷問・処刑を行った事が、
オランダ商館員やポルトガル船長の記録に残っている。
その弾圧の残酷さは、反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった。
次代の松倉勝家も重政の圧政を継承し、さらに過酷な取立てを行った。
天草も島原同様キリシタン大名・小西行長の土地で、
関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、
次代の寺沢堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、
すべて反乱の原因を年貢の取りすぎにあると書いているが、
領主・勝家は自らの失政を認めず、キリシタン信仰を結束の核としていたことをもって、
これを反抗的なキリシタンの暴動と主張した。
以後、幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実としたため
「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という一面的な見方が定着した。

上記のように宗教弾圧以外の側面が存在することから
一揆軍に参戦した信者は現在に至るまでいわゆる殉教者としては認められていない。

乱の勃発

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、
武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化
(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。
肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして
一揆が組織されていた。
島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、
キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎
(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。
寛永14年10月25日(1637年12月11日)、
有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、
ここに島原の乱が勃発する。

ただし、この一揆は島原半島雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、
ここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、
これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功せず、
北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群、
特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、
一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功し
(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある。)
乱に巻き込まれずに済んだ。

島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍を迎撃するが敗走した。
一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、
一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた。
島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、
その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという。
一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。
一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、
後述する討伐軍が迫っていることにより断念する。

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。
天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、
11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。
勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、
北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。
攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、
後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。
有明海を渡って島原半島に移動し、
援軍が期待できない以上下策ではあるが
島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。
ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる。
一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

原城の籠城戦
乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した。
重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、
12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。
城の守りは堅く一揆軍は団結し戦意が高かったが、
討伐軍は諸藩の寄せ集めであったため統率がとれておらず、
戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱らの派遣を決定した。
焦った重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが強引に突撃して討ち死にし、
連携不足もあって攻撃は失敗した。
討伐軍の死傷者は4,000人以上であったという。
重昌が派遣される際、
柳生宗矩は小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば
九州大名の統制がとれず討伐は失敗すると考えて反対したという話がある。

新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がり、
陸と海から原城を包囲した。
側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、
甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し、
兵糧が残り少ないことを確認した。
これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けてオランダ船デ・ライプ号とベッテン号が島原に回航、
海からの砲撃を行い、さらに陸揚げした船砲五門を城内に撃ち込んだ。
しかし砲撃の目立った効果も見られず、
また外国人の助けを受ける事への批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。
この砲撃の破壊効果は少なかったが、
心理的に大きな影響を与え一揆軍の戦意を喪失させたと考えられている。

討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたが成功しなかった。
更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、
一揆軍はこれを拒否している。
一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海草を兵糧の足しにした。
信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、
海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。
また、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わるため、
信綱は2月28日に総攻撃を決定。
しかし、鍋島藩の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始された。
兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、
討伐軍の数も圧倒的に多かったため、
この総攻撃で原城は落城。
天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。

幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に老若男女37,000人が死亡した。
生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であったといわれる。
ただし、原城の断崖絶壁を海側に降りて幕府方の総攻撃を前に脱出する一揆勢の目撃情報もあるため、
実際は幕府方の総攻撃以前に千人単位で脱出者がいたとの説もある。

幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死者は8,135人という説もある。

全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。
なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、
兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。
天草三氏(天草・志岐・柄本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり
一揆軍に参加(柄本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。
また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。

幕府軍
幕府派遣軍
上使 - 板倉重昌 800人
上使 - 松平信綱 1,500人
副使 - 戸田氏鉄 2,500人
諸大名
備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)
筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人
筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人
同柳河藩 - 立花宗茂 5,500人
肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人
同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人
同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人
肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人 宮本武蔵
日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人
豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 高田又兵衛
同中津藩 - 小笠原長次 2,500人
豊後高田藩 - 松平重直 1,500人
薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人
そのほか - 800人
総計 125,800人(上使板倉重昌以下死者1,900人 負傷11,000人)

籠城軍
主な人物
天草四郎
益田好次
山田右衛門作
森宗意軒
蘆塚忠兵衛
千々輪五郎左衛門
駒木根友房
赤星内膳
大矢野作左衛門
千束善左衛門
ほか

戦闘員 - 14,000人以上(推定)
非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)
総計 37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢などを換算し、27,000人など異説あり。
前述通り総攻撃直前に内通した
山田右衛門作1人を除きほぼ総攻撃時に、原城に篭っていた全員が死亡)

これによって、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、
乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて
反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。
わずかに残された信者たちは深く潜伏し、
隠れキリシタンとなっていった。
島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。
また、これ以降一国一城令によって
各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、
破壊がいっそう進むことになった。

処分
島原藩主の松倉勝家は一揆の責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。
大名が切腹ではなく斬首とされるのは極めて異例である。
天草を領有していた寺沢堅高も同じく責任を問われ、天草を没収される。
後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。

また軍紀を破って抜け駆けをした鍋島藩の藩主鍋島勝茂も、
半年にわたる閉門という処罰を受けた。

島原の乱以後の天草

島原の乱が天草と連動した原因の1つは、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。
天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、
桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、
現実はその半分程度の石高しかなかった。
実際の2倍の収入がある前提で行われた徴税は過酷を極め、
農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、
武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、
密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、
3年で讃岐国の丸亀に国替えとなった。
天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。
重成は禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、
曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。
一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、
周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。
天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、
石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えた。
しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。
そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し幕府に抗議した。
幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、
養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。
この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。
重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやくこれを認めた。

重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、
忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。
これは、領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、
離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、
幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、天草の実情を無視した寺沢広高による統治にあった。
その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。

天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタン信者の潜伏残存率は高かったといわれる。
これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、
無人地帯が広がらなかったことや、
江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産する
ナマコ・鮑・フカヒレなどの海産物の乾物(俵物)がやはり
幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、
隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。



R251をひたすら北上していくととある漬物屋さんに僕が呼んだお迎えが到着していました。




SH-60B.JPG


雪山もこれでひとっ飛びだぜ!
じゃ、コレに乗って帰ります!.JPG


今にも動き出しそうなヘリの展示はこの漬物屋さんかしています\(◎o◎)/!
ここの敷地にあります.JPG
しかし・・・なぜ漬物屋が??


展示品ということで雪山ひとっ飛び計画は失敗に終わりましたが、
島原観光はまだまだ続きます!


次にやってきたのはみずなし本陣という名前の道の駅!


被災家屋保存公園の説明はコレ!.JPG
またまた火山のお勉強にやってきました(*^_^*)


道の駅みずなし本陣は水無川の下流域に位置しています。
土石流は後ろの雪山から.JPG


噴火した火山はマグマや火山弾以外にも火砕流、土石流、火山灰などの様々な災害をもたらしたそうです。
自分ちがこうなったらショック!.JPG



平成新山の噴火と被害

現在の平成新山を形成した噴火活動は、
1989年(昭和64年)の橘湾群発地震より開始された。
1990年(平成2年)11月17日に噴火し、それ以降噴煙活動が観測された。
最初の噴火は大規模なものではなく、
12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、
そのまま終息するかと思われたが、1991年(平成3年)2月12日に再噴火、
さらに4月3日、4月9日と噴火の規模を拡大していった。
5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、
さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。
5月20日に地獄跡火口から溶岩の噴出が確認されたが,
粘性が高かったため火口周辺に溶岩ドームが形成された。
翌21日には崩壊が始まったことが確認され、事態は一気に深刻化した。
溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、
破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こした。
噴火活動は途中一時的な休止をはさみつつ1995年(平成7年)3月ごろまで継続した。
火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された火山としても有名である
(過去には、プレー山などの火砕流が写真としては多く記録されており、小規模なものの映像も撮影されている)。

災害の様態

主峰普賢岳噴火活動は島原半島、特に島原市と深江町に大きな被害をもたらした。
被害をもたらす主たる要因は火砕流と堆積した火山灰による土石流であり、
これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。
また、火山活動中島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、
今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。

島原市・深江町以外の地域については、風向きによって熊本空港で噴煙が観測され、
航空機の離発着に影響を与えたことなどがあった。



1991年6月3日の火砕流
特に大規模な人的被害をもたらしたのは
1991年(平成3年)6月3日午後4時8分に発生した火砕流であり、
取材に当たっていた報道関係者16名(アルバイト学生含む)、
火山学者(クラフト夫妻と案内役)3名、警戒に当たっていた消防団員12名、
報道関係者に同行したタクシー運転手4名、警察官2名、
選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、
農作業中の住民4名の合わせて死者行方不明者43名と9名の負傷者を出す大惨事となった。
この火砕流以降、島原市など地元自治体は強制力を伴う警戒区域を設定し
最大11,000人が避難生活を余儀なくされたが、以降の犠牲者は1名に抑えられている。
被災地域では噴火活動の終息に伴い堤防や地面のかさ上げ工事を実施し
一部地域を除いて住民が再び住める環境が整えられた。

なお、火砕流で殉職した日本テレビのカメラマンが撮影していた映像が
2005年6月になって発見・修復され、避難を警告する警官らや、
それを無視し火砕流が襲来する直前まで取材を続ける記者らの姿や音声が記録されていた。
この映像は、同年10月16日に
「NNNドキュメント'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言」として放送された。

防災活動
前兆現象が観測されていたため事前に対策会議が開かれており
関係機関の関係はおおむね良好であった、
特に長崎県、島原市、島原に観測所を持つ九州大学と
被災者救助のために派遣された陸上自衛隊
(第16普通科連隊など)との関係はきわめて緊密であった。
報道、学術、防災機関のすべてが火砕流で犠牲になったため、
当時唯一火山近傍で行動できる能力を保有していた自衛隊への期待は高く、
自衛隊も救援活動のため九州大学などの指導を受けつつ協同で火山観測を行い、
その成果を関係機関及び地元住民への24時間のリアルタイムな情報提供したことで、
民心の安定と復旧作業の進展および火山研究に大きく貢献した。
自衛隊は火山観測と地元に対する支援のシンボルとして
以降1995年(平成7年)12月まで1,653日間(史上最長)にもわたり災害派遣を継続した。

報道について
被害の背景には、当初発生した小規模の火砕流が衝撃的だったことから
取材競争が過熱し、十分な知識を持たない報道関係者が、
取材のため「定点」と呼ばれた山と火砕流を正面から望める地点に入ったことがある。
これにより報道関係者は消防・警察も立ち入らない危険地帯に多く滞在することとなった。
また一部の報道関係者が、避難して無人となった人家に侵入するなどトラブルを起こし、
6月1日にはテレビ局の取材班による盗電も発生していたため、
消防団員、警察官が余分な出動をさせられたという指摘もある。
結果的に火砕流は報道陣の想像を超え、「定点」を飲み込んで犠牲者を出した。

犠牲者発生以降の6月7日に災害対策基本法に基づく警戒区域が設定され、
無許可の立ち入りが禁止された。
これ以降は報道関係者が警戒区域内に入ることはほとんど無かったが、
その後も自衛隊の情報独占に不満があると主張するジャーナリストらが
許可なく警戒区域内に侵入し書類送検される事例もあり、
報道のあり方が問われる事件となった。

報道機関はヘリコプターでの取材もしばしば行い、
眉山の東側の陸上競技場を場外離着陸場にしており、
火砕流発生のたびにヘリが飛び立った。
一部ではリモコンヘリによる取材も試みられた。
大火砕流が発生する前に、溶岩ドームの成長などをヘリで上空取材していたが、
溶岩ドーム(当時桃太郎さんと愛称で呼ばれていた)の爆発が何時起きても不思議ではなく、
事故がなかったのは幸いであった。
取材用ヘリの最高時速は220Km位で、火砕流の駆け下る速度よりは早いが、
取材中は80~100Kmまで減速しているために、火砕流に巻き込まれる可能性も十分にあった。

陸上自衛隊のV-107が各社報道関係者を体験搭乗させたが、
火山灰によるエンジントラブルで桑畑に緊急着陸(不時着)したこともあった。
各社報道陣は徒歩で(駆け足で)水上川河川敷の安全地帯まで逃げたこともあった。
火砕流は発生せず全員無事であった。

支援・見舞い
今上天皇・皇后は最大規模火砕流発生後の1991年7月10日に被災地を見舞った。
その際、付き人を最低限の人数にとどめ、昼食も簡素な食事とした上で、
時間の許す限り被災者を見舞う時間を設けた。

国・県・市などは基金を設立し、避難所生活の改善や
住宅再建補助など約100項目の生活支援を行っている。
また、直接間接被害額は約2,300億円に達したが(1996年、島原市調べ)、
長崎県や日本赤十字社などに230億円の義援金が寄せられた。
こうした義援金も、被災者の住宅再建等や復旧事業に使われた。

また、NHKでは被災者を勇気付ける目的も込めて、
土曜ドラマ「がんばらんば」を制作した。

歴史
701年 行基による開山

1663年(寛文3年) 噴火。
     輝石安山岩質の古焼溶岩流が山腹から流出。

1792年(寛政4年) 噴火。山腹からデイサイト質の新焼溶岩流が北東に流下。
           その後、眉山が山体崩壊を起こし、「島原大変肥後迷惑」の発生。

1928年(昭和3年)3月31日 「温泉岳」として国の文化財(名勝)に指定。

1934年(昭和9年)3月16日 雲仙国立公園(現雲仙天草国立公園)として
           日本で最初の国立公園に指定。

1952年(昭和27年)3月29日 「温泉岳」として国の文化財(特別名勝)に指定。

1990年(平成2年)11月17日 噴火活動を開始

1991年(平成3年)5月20日 地獄跡火口から溶岩ドームの出現が確認される。

1991年(平成3年)6月3日 火砕流が発生。報道、
           消防関係者を中心に死者43名の大惨事に。
           この中には有名な火山学者クラフト夫妻も含まれる。

1995年(平成7年)4月 噴火活動の休止

1996年(平成8年)5月20日 島原市と小浜町(現雲仙市)が溶岩ドームを「平成新山」と命名。

2004年(平成16年)4月5日 平成新山が国の天然記念物に指定される。

2007年(平成19年) 日本の地質百選に選定(「雲仙」)。


雲仙岳の防災

山頂付近になお不安定土砂(火砕流堆積物)が多数存在しており、
豪雨時には土石流となり下流の集落、国道などへ流下してくることから、
山麓では治山、砂防事業によるダムの設置、緑化工事、導流堤の設置など、
大規模な防災施設の設置が進められている。

気象庁では2003年に雲仙岳をランクA「とくに活動度が高い火山」に分類し、
2007年からは噴火警戒レベルを導入している。
ただし1997年以降は、小規模な噴煙活動や火山性地震は発生しているものの、
大規模な噴火活動は発生していない。


島原大変肥後迷惑とは

島原大変肥後迷惑(しまばらたいへん ひごめいわく)とは、
1792年(寛政4年)にに肥前国(現在の長崎県と佐賀県)でおこった
雲仙普賢岳の噴火およびその後の眉山の山体崩壊とそれに起因する津波災害。
津波は島原対岸の肥後国(現熊本県)にも大きな被害を与えたのでこのように名付けられた。



概要
雲仙普賢岳の火山活動により島原地方(現在の島原市)で有感地震が続き、
その後普賢岳から噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。
活動が収まりかけたかに見えた旧暦4月1日(新暦5月21日)、
大地震によって城下町の背後の眉山が大規模に崩壊し、
大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちた。
これを「島原大変」という。この時の死者は約5千人といわれている。

有明海に達した土砂の衝撃によって発生した高波が、
島原の対岸の肥後国天草に襲いかかった。
これを「肥後迷惑」という。肥後の海岸で反射した返し波が島原を再び襲った。
津波による死者は約1万人といわれている。

島原大変肥後迷惑による死者は合計1万5千人にも及び、
有史以来日本最大の火山災害となった。

この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、
島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、
九十九島(つくもじま)と呼ばれている。
これは地形学的に言うと「流れ山」と呼ばれる地形である。
同じ長崎県の佐世保市から平戸市にかけては九十九島(くじゅうくしま)と呼ばれる群島があり、
混同しないよう注意を要する。

序章
1791年(寛政3)末ごろから、雲仙岳西側で有感地震が多発。
震源が徐々に普賢岳に向かって行った。1792年の新暦2月、
普賢岳で噴火が始まった。この時は火砕流はなかった。
溶岩は2ヶ月掛けて2km、千本木という部落まで流れて止まった。
その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震がなお続いた。

新暦4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった。

山体崩壊
群発地震が収まりかけた新暦5月21日の夜、2度の強い地震が起こり、
眉山の南側部分が大きく崩れ、大量の土砂が島原城下を通り有明海になだれ込んだ。
眉山崩壊の原因については、直接の火山活動によるものか、
雲仙岳の火山性地震によって誘引されたものであるかは、現在でも定かではない。

津波
その衝撃で津波が発生し、対岸の肥後天草でも多くの人が命を落とした。
死者・行方不明者1万5千人のうち約3分の1が肥後領側で亡くなったので、
「肥後迷惑」と呼ばれた。島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っている。



帰りはまたフェリーに乗って阿蘇山越え
沢山のカモメが見送ってくれます。
この中で一羽カメラ目線のヤツがいます。
正解は右斜め上のヤツ♡.JPG



さらば島原.JPG
またくるぜ!島原.JPG


こわいよぉ!!.JPG
予想通りのゆき道を越え・・・
九州でこの温度は有り得ん!.JPG
今度は阿蘇ウィンターラリーだ!.JPG
IMG_1163.JPG


キリシタンと火山だけをテーマに旅をしてきましたが、2日間大満足な旅でした♡
また暖かくなったら、今度はバイクで来たいとおもいます♪



破壊と再生・・・対照的な象徴がコラボする学校はココにあるよ♪
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=lPkGBnrEmNAVuPLWsSkiyk0r0IOi2HuOZhbA


土石流に埋もれた家屋がある場所はココです!!
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気軽に立ち寄れる島原名物の具雑煮に舌鼓♡旨い鍋はココにある!!
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若くして散っていった天草四郎・・・彼は今でも信仰の自由を訴え、静かに祈り続ける。
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すいすぽ??でドライブ♪ [すいすぽでドライブ]

皆さんこんばんは☆
田舎のペ・ヨンジュンことゆきでございます♡


今日は沢山雪が降りましたねぇ!!
この時期に雪が降ると期待しちゃいますねホワイトクリスマス!
家の畑も雪化粧.JPG


さらにこの時期雪が降ると期待しちゃいますねアイスバーン!
ジムニーやパジェロに乗ってる人は白いお山がワクワクですね!


そんな冬のイベントとは無関係に今日もゆきはうろうろいたします♪


ぶんぶぅ~ん♪
(バイク?んな馬鹿な!!車っすよ!く・る・ま!)


大分県中津市のゲームショップわんぱく中津店!
時代の流れに取り残されない為に買いに来ました!!
ファイナルファンタジー13!!
わんぱく中津店.JPG
コレで僕も時代の最先端♡


てか、写真でか!!半分切れてるし!!サバゲーファイルに続き、また失敗してしまった・・・
今回はでかい写真のまま、強制的にお届けします!


時代の最先端を手に入れた後は八面山に行って来ました♪
中津のアルプス八面山.JPG


八面山には金色温泉や夜景、ハンググライダー?パラグライダー??等が多目的に楽しめるスポットです。
今日の目的は温泉でもパラグライダー?でもありません。


さて、ココに車を停めて・・・
代車だよ.JPG
え??スイフトスポーツじゃない??
僕のスイスポは内装がビビッて五月蝿いから入院してます。


駐車場に車を停めてテクテク歩くと平和記念公園があります。
平和公園の由来.JPG
おっきな写真だから説明も見やすいでしょ(笑)


平和の火.JPG
戦争の火は今も燃え盛る.JPG


不景気でも平和が一番だよ!


世界人類が平和でありますように.JPG


よ・・・読める??.JPG
IMG_0140.JPG
めっけました!!
今回の目的はこの戦闘機!!
かっけぇ~!!乗ってみてぇ~!


F86戦闘機.JPG
バルカン砲発射!!.JPG
形も性能も違うんだろうけど、こんなんに載って敵に特攻なんて普通の人間にはできないよねぇ・・・


さて、今日の目的も果たされた事だし、次は・・・
おやつでしょう!雪山でしょう!


エリチャンガカンコクノリヨコドリイムニダ.JPG
テレビの電波塔.JPG
大分県の電波塔がある十文字原
ココからの眺めは最高ですが、今日は雪が降っているので見通しがききません(>_<)


ゆきだるま♡.JPG
十文字原で雪だるま発見(#^.^#)


雪だるまでこんな話を思い出しました
雪の積もった峠道にちょうどタイヤで踏めそうな大きさの雪だるまが、ちょこんと接しされている時は要注意!!
人間の心理(走り屋だけ?)で踏んでやろ♪となるそうですが、
必ず事故るラインに置かれた雪だるまだそうです(;一_一)


雪だるま踏んでやろうとした人の末路です(-。-)y-゜゜゜
(普通に落っこちただけだと思うよ・・・)
あ!.JPG
この車の持ち主は路肩に退避していました・・・なんか車もオッサンも可哀そう(;_;)


大分の高速道路だよ.JPG
IMG_0169.JPG
地獄蒸しプリンの岡本屋さん.JPG
十文字原から下ると湯の花採取場で有名な明礬温泉にやってきました(^-^)
明礬温泉と言えばコレ!
地獄蒸しプリンとカプチーノ.JPG
おいしそうでしょ♪.JPG
岡本屋さんの地獄蒸しプリン!!
とろとろでうまうまです♡


外・・・寒い・・・.JPG
おいちぃプリンを食べた後は帰路に着きました。
今日もいろいろ散策して回ったなぁ(^^)v


そう言えば・・・
時代の最先端を手に入れた割にはいまだに封すら切ってなかったFF13・・・
買っちゃった♡.JPG
時代の最先端は前言撤回です(;一_一)

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