すいすぽでドライブ ブログトップ
前の10件 | 次の10件

ぽかぽか陽気の涌蓋山(わいたやま)登山=*^-^*= [すいすぽでドライブ]

皆さんこんばんは(*'-'*)
行楽の秋と言うことなのでまたまた登山してきました(* ̄▽ ̄*)ノ"


そして、またまた始まりました『秘境のお時間』ですO(≧▽≦)O
そろそろマイカテゴリーに登録してもよさそうなくらい続くシリーズっす(* ̄▽ ̄*)ノ"
あの山に登るぞ!.JPG
今日登る山は大分県玖珠郡九重町と熊本県阿蘇郡小国町を隔てる湧蓋山(わいたやま)
本当は雲海が見たくてこの山を登ろうと思っていたけど、寝坊したので雲海はなしです( ̄_ ̄ i)


写真は帰ってる最中だけど.JPG
湧蓋山へ登るには色々なルートがあるそうですが、僕が訪れた登山口は大分県側からの牧野牧場(?)から。
地蔵原ルートです(*'-'*)

ウィキペディアには
大分県側からは

ひぜん湯(筋湯)ルート
湯坪ルート
八丁原~一目山ルート
地蔵原ルート


熊本県側からは

岳の湯~はげの湯ルート


など様々なルートがあり、なだらかな涌蓋山は登山初心者にはお勧めなのだとか(*'-'*)
そんなファミリーでも登れそうな山にピッタリな曲をご用意しましたo(*^▽^*)o~♪
僕の登山レポと一緒にお楽しみください=*^-^*=



森の妖精です.JPG
登山開始直後は秋の森らしく落葉が沢山降り積もった山道を進みますが
落葉の山道を抜けると突然砂利道に遭遇しました!
この道、メチャメチャ長くて涌蓋山までホントにいけるのか!?ってくらい不安にさせてくれます(´-ω-`)
モトクロスやマウンテンバイクでガンガン攻めるには楽しそうなダートだなぁ♪
なんて考えながらとぼとぼ歩いていると、すすきの間に妙な空間を発見!


・・・殺人事件か!?.JPG
…もしかして…
誰か死んだ!?


ひぇ~(゚~゚;)


あ゙~とんでもない所に入り込んでしまったぜぇ(_´Д`)ノ


モトクロスが楽しそうな道.JPG
気を取り直して、やっと見つけた『涌蓋山越』の看板♪
よかったぁ(^.^)道間違ってなかったんだぁ(^-^)


道じゃねぇじゃん!.JPG
っておい!!
これが入口かよ!?


行くけどさぁ.JPG
まぁ…結果先へ進むんだけどさ(*^-')b


ちょっと隠れてみた.JPG
途中、熊笹だらけの広場があったので一人でかくれんぼ(^-^)/


涌蓋山の中腹辺りから木々が無くなり、見晴らしがよくなりますが…


そろそろ運動不足がたたり始める頃(~_~)
ちぃ~ん・・・.JPG
ちぃ~ん・・・
遠くに風力発電やら地熱発電所が見えますが、今は何も見たくない・・・何も考えたくない・・・しんどいわぁ・・・


白目を剥いて横たえていましたゆきですが、しかしっ!何とか山男一年生の意地で頂上に辿り着きました!!
頂上だぁ!!.JPG
歓喜のライオンキング♪( ̄▽ ̄)ノ″


ん!?
って、向こうが湧蓋山やん!.JPG
尾根の向こうにまだ高いやまがあるやん!! なんじゃ!このよくある展開はぁ( ̄□ ̄;)!!
(後から調べて解ったのですが僕がライオンキングをしてた所は女岳っていう所なんだって)


ちゅうことで、しっかり登りました!
たけぇ~(汗).JPG


制覇だぁ~!.JPG
そして、辿り着きましたよ!!標高1500mの涌蓋山の頂きに♪( ̄▽ ̄)ノ″


地熱発電所が見える.JPG
山頂は想像していたような岩だらけな場所ではなく、そこそこ広い原っぱ♪
遠く彼方に地熱発電所が見えます(^-^)


天気えぇわぁ.JPG
迷ったり、こぇ~もん見たりで疲れた僕は涌蓋山のテッペンの原っぱで大の字になって休憩\(^^)/
秋晴れで暖かくてきもちいいなぁ~(*´∇`*)
ゴロンって横になっても柔らかな葉っぱが地面を覆ってるのでチカチカしないよ(*´∇`*)


ちと、日差しが強くて顔が暑いけどきもちいいなぁ(*´∇`*)


・・・ぐぅ~・・・


…いつの間にか小一時間眠ってました(*´∇`*)


今日も無事に登頂できた僕は下山後、筋湯温泉のうたせ湯に立ち寄り一日の疲れを取ることにしました(*´∇`*)
ススキの山だぁ!.JPG
次はどんな山に登ろうかなぁo(*^▽^*)o~♪


fin☆(o^-')b

わが国の城、中津城o(*^▽^*)o~♪ [すいすぽでドライブ]

中津の市中(しちゅう)は雨か・・・
雨は退屈じゃのぉ(゚×゚*)
余は退屈じゃ.JPG
(大分県中津市は雨が降っています。)
雨が降ると城内で一日を過さねばならん!
鉄馬(バイク)にも乗れん!
と言う事で、『雨降り=インドア』の方程式から大分県中津市の中津城本丸にて殿様ごっこをして遊んでます。
余は殿様なのに400円の入場料を払って本丸で遊んでおるのじゃ(* ̄▽ ̄*)ノ"


で、僕の遊んでる中津城ですが、外観は非常にコンパクトでなんとも地方のお城的な雰囲気をムンムン
放っています。
しかし、かつての城主は『黒田官兵衛』というテレビゲームの『戦国BASARA』にも出てくる
名の知れた戦国武将なのだ!!


ではでは、雨も小降りになったことですし我が国、中津藩の城を皆様にご紹介いたしましょうo(*^▽^*)o~♪


黒田官兵衛は黒田孝高(よしたか)(如水・じょすい)とも呼ばれ、豊臣秀吉の命令により九州を平定し、
中津16万石を拝領して、転生16年(1588)中津川河口周防灘(すおうなだ)に臨む城を築く。
それがこの城中津城である!!
日本三大水城.JPG
中津城は山国川河口に建てられ、堀には海水が引き込まれています。
このため今治城、高松城に並ぶ三大水城として数えられています。
また、本丸を中心に北に二の丸。南に三の丸を有した正三角形の形から別名を『扇城』(せんじょう)とも
呼ばれています。
中津市の地名にも『扇城』(せんじょう)や『如水』(じょすい)という地名があったりします。
もしかしたらそんな地名も何百年もそう呼ばれ続けた地名なのかもしれませんね。


在りし日の中津城.JPG
在りし日の中津城の地図を発見しました=*^-^*=
中津城本丸の周辺には上士が住み、高瀬川(山国川)と堀を合わせ二重、三重の防御となっていますね!


小さくても守りの堅い中津城。
かつての玄関口である大手門を探りに周囲を散策しましょう。
大手門跡には学校と教会がある.JPG
大手門跡は現代の住宅事情に埋もれつつあります。
この通りには僅かな石垣と門の柱を支えていた土台があるのみで、後は小学校と教会が軒を連ねています。


大手門の説明はコレ!
大手門の説明はコレ.JPG
おそらく実際に黒田官兵衛は屈強な手だれを従えてこの大手門を通り戦場へと向かったはずですよ!
別府市には石垣原古戦場(いしがきばるこせんじょう)があり、黒田方の本陣跡が残されているからです。


山国川からの西門.JPG
こちらは西門になります。
山国川側からの眺めになります。


西門の説明はコレ!
西門跡の説明はコレ!.JPG
今回の説明はかなり手抜き(* ̄▽ ̄*)ノ"
西門も住宅事情に埋もれそう。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。


銭湯と割烹料理屋.JPG
西門からまっすぐ中津城方面へ進むとすぐに趣のある銭湯と割烹料理屋を発見!


城内をぐるりと散策しましたが、初代城主16世紀の面影を最も色濃く残す部分に出会えました=*^-^*=
拡幅される石垣.JPG
ラピュタみたいな光景だけど、コレは石垣の断面です。
中津城建築当初の石垣は高さ5.85m天頂の幅2.4mで、石垣の中には溝があり城内の雨水はここを通り
堀に排出されます。
写真は石垣の断面で、左から3層に分かれているように見えます。
コレは増幅工事を何度か行った為で、写真左の堀側より増幅されているので築城当初の石垣は今でも
堀からみる事が出来ます。


戻ってきました.JPG
本丸に戻ってきました。


この城を建設した黒田官兵衛(黒田如水)。
彼は小寺政職→織田信長→豊臣秀吉と戦国の世に大輪の花を咲かせた有力武将に仕えていたということから
中津を中心とした周辺地域に少なからずとも何らかの影響を与えているはず・・・
今後の黒田官兵衛のリサーチに乞うご期待!?
タグ: 武将

スイフトで行く♪由布川渓谷 [すいすぽでドライブ]

雨が降ったり止んだりで、じめじめ蒸し蒸しなこの季節[雨]
皆さんはいかがお過ごしでしょうか??


今日は久しぶりに弟に会う機会があったのでそのときの事を書きます[手(チョキ)]
天気が良ければ一緒にツーリングに行こうって話しだったんだけど、あいにくの雨で
弟が運転するスイフトに乗りドライブとなりました[車(セダン)]


大分県の別府市をうろうろしているとへんちくりんなスポットを発見[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
なんじゃこりゃ?.JPG
入場、見学自由な正雲時(しょううんじ)・・・
なんか怪しくねぇっすか??
境内の看板には宗教勧誘しませんて書いてありましたよ[exclamation&question]
(ほんとに??)


ドライブ中に僕が屋久島や北海道を旅した話や、弟からは京都をツーリングした話など
お互いの旅について熱く語らっていると[るんるん]
由布川渓谷.JPG
以前から気になっていた由布川渓谷に着きました[かわいい]


流れは涼やかに.JPG
長い階段を岸壁沿いに下っていくと川底にたどり着きます[ぴかぴか(新しい)]


マイナスイオンがムンムンです♪.JPG
さらさらと雨が降る中こんな所に来るのは僕達だけみたいで他には誰もいません[わーい(嬉しい顔)]
マイナスイオンを兄弟で満喫[ぴかぴか(新しい)]

どっちがゆきでしょう?.JPG
ついでに久しぶりの再開に記念撮影[カメラ]
ゆきはどっちでしょう???


味千ラーメン.JPG
昼食は弟が気になっていたというR10沿いの味千ラーメンと言うラーメン屋さんへ[レストラン]


せ、三番・・・なんち!?.JPG
・・・はい??


パイクー麺.JPG
お店の親父さんお勧めのパイクー麺を注文[手(パー)]


ちょっと遅い昼食を頂いた後は、あまりに何もすることがないので、
ただで入れる温泉を数ヶ所教えてもらったり[いい気分(温泉)]弟のアパートに戻り一緒にゲームをしたり[TV]
昼寝をしたり[眠い(睡眠)]・・・結局なぁにもすることがなくってダラダラ過した一日でした[あせあせ(飛び散る汗)]
別府のタダで入れる温泉については気が向いたらアップしまぁす[手(パー)]

南の秘境!嵐の探検!?世界遺産の屋久島へ!~後編~ [すいすぽでドライブ]

昨日の探検(遭難か[exclamation&question])は自然の美しさと厳しさを身をもって経験したゆきです[雪]
(そして、今日もパイレーツ・オブ・カリビアンのBGMをご用意Pirates of the Caribbean- At World's Endより
One Day[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)][るんるん]



5月20日(AM6:00)
入山初日の疲れを若干引きずりながらの起床[晴れ]
昨日の夜は頭の上をネズミがトコトコ~って走ってたり、めちゃめちゃ近くに雷が落ちたりで
たまに目が覚める場面がありました[雷][ふらふら]
寝袋をぐるぐる丸めて片付けたら、朝ごはんの準備をします[レストラン]
昨日の夜は夕食を作る余裕もなく、すぐに寝ちゃったから腹ペコだよ[あせあせ(飛び散る汗)]
朝食のメニューは・・・オートミールとスパムと昨日、沢で汲んだ水・・・[たらーっ(汗)]
食べ終わった時にお隣のガイドさんから暖かい紅茶をいただきました[黒ハート][喫茶店]
こういう何気ない人の親切心、紅茶の味は忘れないよ[手(グー)]


AM7:00
昨日小屋に泊まっていた方々に元気良く挨拶をしたら宮之浦港を目指し出発[exclamation]
下山途中に昨夜見れなかった縄文杉を探します[exclamation×2]


小屋から出るとそこには絵画のような世界が広がっていました[ぴかぴか(新しい)]
今、たった今ここに立つものしか目にすることの出来ない風景なのです[exclamation]
朝霧煙る高塚小屋より.JPG
絵画のようです.JPG
『僕の冒険もついにここまで来たんだ[exclamation×2]』となんか知らんけど本気で思いましたよ[わーい(嬉しい顔)][グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
そして、これからの人生でどれだけの冒険が出来るのか[ぴかぴか(新しい)]
一つ一つにどれだけのスリルとドラマと感動があるのか[ぴかぴか(新しい)]
もう朝っぱら胸踊り、息弾み、脚筋肉痛なゆきです[あせあせ(飛び散る汗)]


高塚小屋から楠川分かれまではしばらく下りが続くのでサクサク歩けます[パンチ]
この調子で伝説の縄文杉を見つけるぞ[手(グー)]


って、実は山小屋から200m程下ると縄文杉に出会えます[手(チョキ)]
捜し求めた縄文杉!!.JPG
これが・・・これが僕が捜し求めた縄文杉だ[exclamation]
でけぇ!!生命力を目と肌で感じるぜ!!.JPG
何千年もの間ここに佇む縄文杉
幾多の冒険者の往来を見守り続け、数知れぬ程の感動と力を人に与えるその存在・・・
肥沃な大地に根を下ろし、天を覆わんばかりの枝葉を広げる
悠久の年月を重ねた樹皮が遥かなる時代の流れを私達に垣間見せる・・・
これだ・・・
これなんだ
限りある命をどれだけ強く生きれるか
命の尊さ
色々な言葉がこの縄文杉、屋久島から脳裏を廻ってなかなか文章にできないけど
僕はこの旅で『生きとし生ける生命の逞しさと大切さ』に触れることが出来ました


(縄文杉は感動したけど、やっぱ説明が面倒なのでコレね[わーい(嬉しい顔)][あせあせ(飛び散る汗)]
縄文杉の説明.JPG


なんかBGMは、さよなら探検家ゆきちゃん[exclamation]
みたいな感じになっちゃったけど、まだまだ長い道のりと探検すべき場所がありますよ[手(グー)]
昨日見れなかった屋久杉をどんどん見学しちゃいますよ[爆弾][爆弾][爆弾]
そして、またまたBGMにパイレーツ・オブ・カリビアンよりSkull And Crossbones



夫婦杉(めおとすぎ)
夫婦杉.JPG
二本の杉同士の枝がくっ付き、まるで仲良く手をつないでいる夫婦のように見えることから名づけられた。
写真右が男杉で樹高22.9m 
幹周り10.9m

写真左が女杉で樹高22.5m
幹周り5.8m


大王杉
大王杉.JPG
推定樹齢は3000年の大王杉。
縄文杉が見つけられる前までは屋久島内で最大の杉だった[exclamation]

本日二つ目のメインはこのウイルソン株[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
ウイルソン株.JPG
胸高周囲13.8m。高さは5m程のこのウイルソン株は時の権力者、豊臣秀吉の命により
1586年(天正14年)、牧村の五郎七に足場を組ませ伐らせたのだそうです[exclamation]
伐採されたこの杉は建材として使われ、大坂城築城、もしくは京都の方広寺建立に使われたと言います。
遠く海の向こうの巨大な杉を命令ひとつで伐らせてしまう。
凄まじいまでの権力者、豊臣秀吉。
現代の交通手段を駆使して、やっとの思いでここに立つ僕だけど、当時の物流と道具でコレを伐って
運ぶとなるとどの位の時間が掛かったことか・・・[あせあせ(飛び散る汗)]


その後、日本を訪れたアメリカの植物学者アーネスト・ヘンリー・ウィルソン博士により1914年に
西洋文化圏に紹介され、この株の名前の由来となりました。

株の中には水が湧き出ていて、 祠があるそうです。
空洞部分に入って上を見上げるとちょうどハート型の穴から空を見ることが出来るそうです。
でも、入る前の看板にこの先立ち入り禁止って書いてあったから、入れなくなっちゃったんだろうね[ふらふら]


またこの杉は枝が多く、使い物にならなかった先端部分は、下の沢に放置され、今でも残っている。
・・・らしいのですが、いったいどれがその時の枝なのかは解りませんでした・・・[たらーっ(汗)]
(だって、もう疲れてたし、倒木も沢も沢山あるから見分けがつかないんだよ[ふらふら][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


朝霧の中のサクラツツジ.JPG
サクラツツジ.JPG
その代わりに朝霧漂う森の中に美しく咲くサクラツツジを見つけました[手(チョキ)][かわいい]


更に押しますパイレーツ・オブ・カリビアンよりWill And Elizabeth

翁杉
翁杉.JPG
推定樹齢2000年
サクラツツジなどの着生樹に覆われている[exclamation]
樹高23.7m
幹周り12.6m

ヤマタの大蛇のようだ!!.JPG
時々こんな風にたくさん枝のある杉を見ることができます[exclamation]
これは、やはりこの辺りが密林であることから太陽の光をいっぱいに浴びる為の
屋久杉なりの努力なのだそうです[exclamation×2]


翁杉を最後に大株歩道を抜け、初日に歩いたトロッコ軌道を楠川分かれへ向かって黙々と歩きます[パンチ]
途中、目的地まで5.5kmなんていう看板が[exclamation][グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
この速度で20分歩くと約1.5kmは進んでいるはずと、計算しながら進んでいると、
またしても楠川分かれまで5.5kmの看板が・・・[exclamation&question]
あ・・・当てにならん・・・[あせあせ(飛び散る汗)]


楠川分かれに到着[ぴかぴか(新しい)]
楠川分かれの入り口から辻峠へはあまり水場がありません[水瓶座]
ちなみに楠川分かれから辻峠は登り・・・
またしても水の消費が激しく一番しんどいところでボトルの中には一滴も残っていない始末・・・[がく~(落胆した顔)]
辻峠中盤辺りで小さな沢を見つけ、水を確保・・・普通なら絶対に飲まないような場所の水ですが・・・[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
生きるためだ[exclamation×2]
僅かに滴る水をボトルに半分入れ、一気に飲み干す[水瓶座]
ふぅ~[ぴかぴか(新しい)]生き返るぜぇ[るんるん]
故郷のみんな。ゆきはこんなに強く生きられるようになりました[手(パー)]


帰りの白谷雲水峡では遠回りな原生林コースは無視して下山します[わーい(嬉しい顔)][手(チョキ)]
水の島.JPG
もののけ姫チックな沢を渡り


靄の向こうに巨大な杉が!.JPG
霧の向こうにうっすらと佇む巨木を見ながら休憩し[るんるん]


さつきつり橋.JPG
さつき吊り橋を渡るともうすぐ白谷雲水峡登山口に戻ることができます[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]


PM14:00
白谷雲水峡入り口.JPG
皆さんもよく知るパイレーツ・オブ・カリビアンのあの曲He's A Pirate

ようやく下山できた白谷雲水峡[パンチ]
昨晩程、極限な状況ではないにせよ、きつかった道のりも無事終わりを迎えました[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
どれだけこの広場に戻りたかったことか[exclamation]
振り返れば長いようで短かった伝説の縄文杉を探す旅[るんるん]
またひとつ僕の小さな冒険の終わりに、大きなガッツポーズでこの地をあとにしました[パンチ]



下山後は宮之浦のビジネスホテルにて宿泊[ホテル]
久しぶりのシャワーを浴びてちょっと豪華な夕食とビールを頂きます[レストラン][ビール]
今夜の夕食.JPG
懐かしきフカフカのベッドで就寝・・・[眠い(睡眠)][眠い(睡眠)][眠い(睡眠)]


絶海の孤島『世界遺産 屋久島』
躍動する自然のパワーに心打たれ、荒ぶる気候に翻弄されながらも、ただひたすらに前に進んだこの旅は
僕の冒険記に確かな1ページを刻みました[exclamation×2]
そして、様々な事を僕に教えてくれました[exclamation]
大地を這う木の根の上を歩く.JPG

更なる奥地へ.JPG
ココを潜って先に進みます.JPG
縄文杉よ[exclamation] 
またいつの日にか会おう[exclamation×2]
かくしてゆきの秘境探検『南の秘境!嵐の探検!?世界遺産の屋久島へ!~後編~』は
一旦の終わりを迎えるのでありました[カラオケ]   
タグ:秘境

南の秘境!嵐の探検!?世界遺産の屋久島へ!~前編~ [すいすぽでドライブ]




短い旅から戻ってきたゆきでございます[雪]
今回僕が冒険してきた所は絶海の孤島『屋久島』
(って、絶海と言うほどでもないけど・・・[あせあせ(飛び散る汗)]
移動時間は片道約8時間と言う日当をもらってもいいような長い時間を掛けて上陸した
世界遺産の数多く眠る地屋久島・・・[リゾート]
果たしてこの島でゆきはどんな冒険を繰り広げるのか[exclamation&question]
『秘境のお時間』始まり始まりぃ[手(グー)]
(限りない自己満の為にBGMを用意[るんるん]パイレーツ・オブ・カリビアンよりBarbossa Is Hungryをお送りします[揺れるハート][揺れるハート][揺れるハート]



夜中にウチを出発して鹿児島県の『種子・屋久高速船旅客ターミナル』に到着[車(セダン)]
ジェットフォイル船トッピーという名の高速船に乗って約2時間で屋久島は宮之浦港に入港します[船]
九州本土の最南端『佐多岬』から70km・・・そして、九州最高峰(1936m)の高さを誇る宮之浦岳をはじめとし
様々な山が連なる『洋上のアルプス』
この島は、海上に高い山があるので雲が溜まりやすく[曇り]
山岳地では年間降水量が8000mmから10000mmにも達すると言う[雨]
亜熱帯の地域にある島だが、2000m級の山々が連なる為、山岳部では亜寒帯である[右斜め上]
そのため海岸沿いの平地ではガジュマル等の亜熱帯の植物が生息し、
山岳地帯には針葉樹林が繁殖していると言う気温差の大きい特殊な島なのです[exclamation×2]
屋久島・宮之浦港に入港.JPG
そんな特殊な島の玄関口である宮之浦港に入港[船]
九州地方は全般に雨が降り、屋久島も例外ではありませんでした[雨]


あらかじめ予約しておいたレンタカーを借り、早速白谷雲水峡へ[車(セダン)][ダッシュ(走り出すさま)]
白谷雲水峡入り口.JPG
白谷雲水峡はもののけ姫というアニメーション映画の舞台のとして宮崎駿監督が足を運んだと言われています[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
ちなみに森を保護するために300円の協力金を払います[有料]


今日のコースは白谷雲水峡から原生林歩道を散策し、辻峠を越え最終的には
伝説の縄文杉を探し出そうと言う計画[パンチ]
白谷雲水峡マップ.JPG


二枚目の地図は白谷雲水峡の辻峠を越え、楠川分かれからのスタート[手(グー)]
つまり、山をひとつ越え、更に山に登るような形になります[パンチ]
荒川登山道マップ.jpg
上陸から登山開始の時間が遅かった為、日帰りは不可能・・・[ふらふら]
縄文杉を少し越えた高塚小屋で一泊します[exclamation×2]


順路は弥生杉方面へ[るんるん]
すぐに弥生杉へとたどり着きます[手(チョキ)]
樹齢は3000年の屋久杉で『森の巨人たち』に選ばれている代表的な屋久杉なのです[ぴかぴか(新しい)]
弥生杉.JPG
弥生杉の詳細.JPG


そして、予定通り原生林コースへ[くつ]
もちろん原生林コースでしょ!.JPG


原生林コースへ!道無き道を進む!.JPG
白谷雲水峡のみのトレッキングならそんなに装備はいらないけど、
この旅の目的は『縄文杉』を見つけること[exclamation×2]
その縄文杉へ行くには白谷雲水峡を越え、長い長いトロッコ道をひた歩き、険しい登山道を
行かなくてはなりません[パンチ]


白谷雲水峡.JPG


二代大杉に到着[るんるん]
弥生杉はデッキの上から見物できるけど、あまり近くには近寄れないのですが、
二代大杉はかなり近くに寄って見れます[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]その巨大さにただただ唖然とします[exclamation]
大きすぎて写真に納まりきれません[あせあせ(飛び散る汗)]
二代大杉は以前存在した切り株の上で成長した杉。
以前の切り株が腐って空洞が出来ている。
この成長の仕方を『切株更新』といいます。
二代大杉.JPG
二代大杉の詳細.JPG
まだまだ初日で歩き始めたばかりなので余裕はあります[手(グー)]
でも、やっぱりなれない荷物を背負ってのトレッキングは体力を確実にすり減らせて行きます[あせあせ(飛び散る汗)]


まだまだパイレーツ・オブ・カリビアンっ気が欲しい人はPirates of the Caribbean- At World's Endより
film score~Drink Up Me Heartiをお送りします[るんるん]



三本足杉
三本足杉.JPG
三本足杉の詳細.JPG
三本足杉の下を潜るぞ!.JPG
三本足杉の下を潜ったりしてついついはしゃいでしまうよ[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
だけど、僕がコレだけ小さく見えるから屋久杉の大きさが伝わるかな??
この木の足のナゾは下の写真のヒメシャラがヒントだね。
倒木か岩の上で成長し始め、後にその倒木ないし岩が朽ちたり押し流された結果
こうした空洞が出来たのだと考えられています[本]


倒木に覆いかぶさるヒメシャラ.JPG
白谷雲水峡に入ってから植物達の満ち溢れた生命力に驚かされっぱなしです[exclamation]
屋久杉は樹脂が多く何百年経ってもなかなか腐らないそうです。
この倒木もいつまでもここに横たえているのでしょう。
そして、いつの日にかこのヒメシャラに覆いかぶさられてしまうんだろうね。


歩き出しそうだよ!!.JPG
歩き出しそうな杉を発見しました[exclamation×2]
木の根が毛細血管のように這っています[るんるん]
こんな血管の様に広がる根の上を山道として歩く区間はいくつもあります[exclamation]




しばらく歩くと、びびんこ杉に到着[手(グー)]
びびんこ杉.JPG
びびんこ杉の説明だよ.JPG
そういえば僕も小学校の頃に『肩車』の事を『びんびんこ』って言ってたなぁ[わーい(嬉しい顔)]
あれって鹿児島の方言だったんだね[ぴかぴか(新しい)]


コレは三本槍杉[クリスマス]
太い幹の上に三本の槍がまっすぐ立っているように見えるでしょ[かわいい]
三本槍杉.JPG
三本槍杉の詳細.JPG
右が斜めに倒れた後に方向転換したとされる元樹で左の二本は、着生したものらしい[手(パー)]


汗が滝のように流れ落ちる.JPG
ただ傾斜を歩くと言う地味な動作でも滝のように汗が流れ落ち、
準備しておいた水は瞬く間に消費してしまう・・・[あせあせ(飛び散る汗)]
持参した飲み水ではとても足りない・・・[ふらふら]


ヤクザル!・・・の後姿・・・.JPG
雨が弱くなるといろいろな場所から動物の鳴く声がする[猫]
後ろ、前、頭の上など[犬]
原生林を抜けるべく歩みを進める僕に清らかな沢とヤクサルが現れた[exclamation×2]
(野生の動物に食べ物をあげちゃ駄目だって[手(パー)]遠くからそっと見守りましょう[るんるん]
幾度と無く澤を渡る.JPG
屋久島は『水の島』と言われるほど水が豊富にあるので所々で飲み水を確保できる[水瓶座]
だけど、上流に非難小屋や登山道がある場合はちょっと遠慮しといたほうが良いかも[たらーっ(汗)]


ここは標高約800mの奉行杉[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
白谷雲水峡の中では最大と言われる杉で樹齢は不明[ぴかぴか(新しい)]
奉行杉.JPG
奉行杉まできたぞぉ!.JPG
奉行杉の詳細.JPG
江戸時代に試し切りをした跡があるらしいけど・・・どれが試し切りの跡だか解んない・・・[あせあせ(飛び散る汗)]


二代くぐり杉[くつ]
二代くぐり杉.JPG


中から空を見れるよ・・・と言っても木々に覆われてますけど・・・
でも、日常生活の中で、こんなに神秘に満ちた光景を見ることはまずない[るんるん]
動物とは違った命に抱かれ不思議な気持ちになる[るんるん]
二代くぐり杉は空洞になってるよ.JPG


ココを潜って更に進まなきゃいけない[exclamation]
道には木の根がびっしり[クリスマス]
結構滑りやすいので注意が必要[exclamation]
二代くぐり杉・株の中からの道.JPG


二代くぐり杉を潜ったら今度はくぐり杉が現れる[るんるん]
白谷小屋までもうすぐだ[exclamation]
くぐり杉.JPG


白谷山荘.JPG
雨風しのげる白谷小屋だぁ[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
この時点で2時・・・先はまだまだ長いので、ここではトイレ休憩のみにします[トイレ]


小屋の内部はこんな感じのが,この隣にもうひとつ。20人ほどは余裕で寝られそうな小屋でした[家]
白谷山荘内部.JPG


移動しながら食事を済ませます[くつ][レストラン]
僕はいつも山登りに行くときはカロリーメイトをもって行きます[手(パー)]
腹持ちもいいし、微量栄養素も添加されていてこういうサバイバルな状況下で火を使わず
手軽に摂取できる[レストラン]
メタルギア・ソリッドのスネークも大絶賛な一品なのだ[exclamation×2]
あとは、ビーフジャーキー[るんるん]携帯に便利で蛋白質と汗で失った塩分を摂取できるからね[わーい(嬉しい顔)]


ヤクシカだ!!.JPG
ヤクシカに出会えた『もののけ姫の森』


もののけの森だっけ?.JPG
『もののけ姫の森』のみならず、屋久島の森は木々が密集していて昼間でもかなり薄暗い・・・[人影]
時折、細い木にピンク色のテープを巻いてあるので、それを目印に進まないと
たちまち迷子になってしまう[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
休憩してた白谷小屋で聞いたんだけど、遭難するとマジで見つからないらしい・・・
遭難で死んだ人や、縄文杉の所で自殺した人がいるんだって[がく~(落胆した顔)]
遭難は確かに隣り合わせだけど、自殺はあんまり信憑性がないなぁ・・・と思っておこう・・・[ふらふら]
[モバQ]ひぃぃ[あせあせ(飛び散る汗)]


辻峠・大株歩道入り口まで・・・遠い・・・.JPG
辻峠に差し掛かりました[パンチ]
このあたりに来ると、疲労もピーク・・・[たらーっ(汗)][たらーっ(汗)]
なんか出発時よりもザックが重たくなっているような・・・[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


それもそのはず。本来、雨が降るかもって時はザックカバーをするのですが、短期間でゼロから装備を
慌てて揃えたのでザックカバーまで手に入らなかったのです・・・入山してから雨が降ったり止んだり・・・
そのためザック内の装備品がお腹いっぱい水を吸って重さを増し、僕に圧し掛かって来ているのです。


辻峠では、アニメーション映画『もののけ姫』に登場する白く大きな狼『モロ一族』の住処となった
太鼓岩や辻の岩屋があります[カチンコ]
ココまで歩いてくると疲労に伴い、休憩の回数も多くなってきました・・・[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


辻の岩屋[ぴかぴか(新しい)]
辻の岩屋.JPG


岩屋で小休憩.JPG


モロ一族の住んでいた所のモデル.JPG
辻の岩屋で小休憩[喫茶店]
雨がかなり激しくなってきたのでレインコートを取り出し先を急ぎます[雨]


辻峠から大株歩道へ行く途中.JPG
確か、この時点で夕方の4時を回っていたような・・・
かなり薄暗いです


豪雨.JPG
で、バケツをひっくり返した様な豪雨に襲われています[雨][雷]


重い足取りで辻峠を下りきり、出て来たのは楠川分かれと言う白谷雲水峡へ行くか
荒川登山口へ行くかの分岐点[手(グー)]
辻峠を抜けた楠川分かれ.JPG


この楠川分かれから、しばらくトロッコ軌道を歩きます[パンチ]
トロッコ道.JPG
このトロッコ軌道は1923年(大正12年)に開通した軌道で、昔は安房(あんぼう)から付設されていたそうです[ぴかぴか(新しい)]
山で働く小杉谷集落の人々の足となり、又、生活物資や切り出した木材などを運んだりと
非常に重要な役目を果たしていたそうです[手(パー)]
今でも土埋木を運ぶために使用することがあるそうです[るんるん]


トロッコ道の木の橋.JPG
『スタンド・バイ・ミー』チックな橋や『インディー・ジョーンズ』的な木橋が架かっていたりして
廃墟好きにはたまらない道なのだ[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
けど・・・若干ゆるやかぁ~な登り坂で確実に足腰に効きます・・・[ふらふら]
それに目指している大株歩道入り口までひたすら長い・・・[あせあせ(飛び散る汗)]
5.5km・・・半端ねぇ・・・[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


確かトロッコ軌道から大株歩道入り口に入る頃にはもう夕方5時を回っていました・・・
すれ違う方々は皆、帰路に付いており、登山のベテランばかりの様で口々に
『今から高塚小屋へ着くのは暗くなるはずだよ[三日月]気をつけてね[手(グー)]
[ひらめき]ヘッドランプはもってる??』
『若さで勝負だね[exclamation×2]頑張れ[パンチ]』と・・・やっぱり素人が無謀な挑戦だったか[exclamation&question]


案の定、大株歩道入り口から高塚小屋まで、所々木道は整備されていても基本的に
急な登りが続き、おまけに辻峠越えから降り続く豪雨は弱まる事を知らない・・・[台風][雷]
夕方5時ちょい過ぎなのにもう薄暗い・・・[曇り]
僕はヘッドランプを装備し、足元を照らしながら進む・・・[ひらめき]
・・・
・・・ ・・・ 
・・・ ・・・ ・・・。
要所、要所に道しるべのピンク色のテープは貼られてあるけど、少し油断をすると
暗闇に紛れて見失ってしまいそうだった・・・
強力な光を放つヘッドランプも土砂降りの雨に阻まれ、そこまで先を見渡せるわけじゃない。
体力と筋力はすでに限界を越え、重みを増したザックが肩に食い込み、轟く雷鳴と屋久杉の
太い枝葉を激しく揺らす風が僕の焦燥感を掻き立てる。
・・・
・・・ ・・・
・・・ ・・・ ・・・。
昼間聞いた遭難の話が脳裏に嫌でも浮かぶ・・・
ヘリの一声50万円・・・
それ、オートポリス走ってた時にも聞いたよ・・・てか・・・白谷雲水峡の時点で携帯電話は『圏外』を記し
意味を成さない。

昼間の動物達もどこかで息を潜め、生き物の気配を脆弱に放つのは僕のみだ・・・


でかく、ふてぶてしく転がる岩の間を縫い、何度も泥水の中に倒れこんでは体力の回復を待った・・・
標高1300m付近・・・午後8時・・・夜中の縄文杉を通り過ぎた・・・
山小屋まであと僅かだ・・・久しぶりにヤバイと思った・・・
その証拠に写真撮る元気がなかったっす[カメラ][ふらふら]


ようやくヘッドランプの光の中に入ってきたブロック塀・・・
[家]山小屋だ[exclamation×2]
[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]やっと高塚小屋に着いたんだ[exclamation×2]


10名程の先客がいたものの全員起きていた。
一見小屋の定員が満杯の様に見えたけど、快く寝床を開けてくれて本当に助けられた[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]
本来、この山小屋には夕方4時頃までには着いて、寝る支度をするのだとか[時計]
『よくこんな時間にたどり着けましたね[exclamation×2]
『暗いし雨が強かったから怖かったでしょう[ふらふら]』と口々に・・・


『マジでプチ遭難でした・・・本当に死ぬかと思いました・・・お休みの所すみません。助かりました。』
なかなか究極な状況だたので気の効いた台詞がでてこなかったけど、寝床開けてくれただけで
感謝の一言だったよ。
空いてなくても割り込むつもりだった事は内緒なのだ[わーい(嬉しい顔)][あせあせ(飛び散る汗)]


以前風と雨が強く、雷が鳴り響く嵐の夜だけど安眠できる場所を勝ち取ったゆき[パンチ]
かくして、明日の探検はどうなるのか[exclamation&question]
伝説の縄文杉とはどんなものなのか[exclamation&question]
ウイルソン株と時の権力者の歴史に迫る[exclamation×2]
次回、『南の秘境!嵐の探検!?世界遺産の屋久島へ!~後編~』お楽しみに

続きを読む


タグ:秘境

熊本城 [すいすぽでドライブ]

『お城見学は足軽が城を攻め落とすつもりで臨むべし[パンチ]
平御櫓と須戸口門.JPG
熊本城の強固な須戸口門(すどぐちもん)を乗り越え、平御櫓の頭上からの攻撃を
入場料500円で無事に掻い潜った・・・[爆弾]


歴女・・・もとい、歴男(れきお)の戦国お城見学のスタートだぁ[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]


今日は熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にあった城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。
熊本城。大天守と小天守と時々おばちゃん.JPG


城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再)
築城主 出田秀信
築城年 1469年 - 1487年頃
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤氏、細川氏
廃城年 1874年


中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて
加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。
日本三名城の一つとされ、
「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように
建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。

細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに
現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、
西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。
現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る。


石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、
城跡は特別史跡に指定されている。
昭和時代初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、
近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。


歴史・沿革
文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を
築いたのが始まりである。

その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに
託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に
隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。
寂心は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)に後奈良天皇の綸旨、
1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。
1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、
かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れた。
しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、
薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し筑後国に移った。
秀吉の御伽衆・大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と
云者相踏候、数年相拵たる名城なり」と記す。
また、秀吉が一柳直末に送った朱印状の中で「肥後は然るべき国に候間、
羽柴陸奥守(佐々成政)おかせられ候、熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と述べている。

新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、
肥後国衆一揆を引き起こす。この時隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、
城代の神保氏張が死守して落城は免れている。
1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり
隈本城に入った。

熊本城時代
加藤清正.JPG
加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。
1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。
1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。
1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の
建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の
領主となり熊本城に入った。
このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。
忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。

加藤家の治世末期には藩財政がかなり疲弊し、お家騒動も勃発しており城の修理もままならぬ状況であった。
細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修理を幕府に申し出ている。
この修理はかなり大規模で建築物の修繕に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)も行っており、
現在見られる縄張りはこの修理の際、完成したものである。


明治時代以降

明治初期(1874年)の熊本城幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があったが、
維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして
熊本城の解体を新政府に願い出た。
これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。
しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。
藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、
藩内に意見の相違があったためといわれる。
代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。

1871年(明治4年)廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、
同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改めた。)がおかれた。

この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、
特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却している。
西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。

1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い
城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。

西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。
西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で
大小天守など多くの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。
田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、
熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、
ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、
誰一人として城内に侵入することができなかったという。

西南戦争後も、時期は不明であるが焼失を免れた西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門が陸軍の手で
破却されている。

1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。

1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。

1933年(昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。


本丸御殿(木造復元)1933年(昭和8年)「熊本城跡」として国の史跡に指定される。

1955年(昭和30年)「熊本城跡」として国の特別史跡に指定される。

1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の
費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化した。
天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等が展示され、
最上階は展望スペースとなっている。

2007年(平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、
未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元された。なお未だ復元工事中や、
工事未着手の建物もいくつかある。

構造

長塀と坪井川城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートルある。
南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。

南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川・井芹川を切り離して内堀としているため
城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。
備前堀.JPG
本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、
西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。
搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、
断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、
多少なりとも傾斜も緩い。
そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、
城郭西端の先に独立した小丘として段山(だにやま)がある。
兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。

石垣
天守閣と石垣.JPG
清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが
上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。
コレが脅威の武者返しだ!!.JPG
熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ
朝鮮に築いた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。
上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、
江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。
江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、
南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。
この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。
熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。

天守
連結式望楼型.JPG
天守は、連結式望楼型、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。
小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。
大天守は、一般に5重の天守として見られているが、2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは
屋根ではなく廂とするので、正確には3重6階地下1階の天守である。
萩城天守と同じように天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」で、
張り出し部分には石落しが設けられていた。
ちなみに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、
城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守があるという。

小天守の天守台は大天守に被さるように造られており大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、
また天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。
これには、いくつか説があり、 大天守が1601年に竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断されたのちに
増築された、1594年に計画した際、櫓が重なり合って景観のバランスが悪いということから、
現在の位置に変更されたことによるといわれ、細部でも意匠が異なっている。
『肥後宇土軍記』によると関ヶ原の戦いの後、加藤清正は隠居のための城として宇土城を改修したが
一国一城令により破却の対象となり、
その際に大天守の北側に石垣を新設し建物を移築し小天守としたと記されている。

大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開(あかず)門より
本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。
不開門.JPG
ちょっと怖い説明.JPG
再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も虎口もなく直に小天守入り口に続く構造を
確認することができる。



建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。
天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。
多重櫓はすべて望楼型である。

五階櫓
五階櫓(ごかいやぐら)は、3重5階の三重櫓である。往時には現存する宇土櫓のほかに、裏五階櫓、
数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築されたが、
大小天守を除く合わせて6基の五階櫓があった。これらの五階櫓は他城の天守の規模に相当する櫓である。
これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓
(数寄屋丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓、本丸東五階櫓)もあり、
一国一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかとの説がある。


宇土櫓
宇土櫓.JPG
飯田丸五階櫓と櫓台の2段石垣宇土櫓
五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で、
熊本城では最大の櫓である。
美しき宇土櫓.JPG
破風はむくりを持ち、諸櫓と同じ仕様で造られているが、最上階に外廻縁を持つ。
清正の創建した初代天守ではないかという見方もある。
宇土城の天守を移築したものと伝えられ、
明和9年(1772年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したが、
昭和2年(1927年)の解体修理の際には移築の痕跡が見られず、城戸久などがこの説を否定した。
宇土櫓に関して記された最も古い文献である別井三郎兵衛の『御城分間』寛文6年(1666年)には
「御天守西ノ御丸 五階御矢蔵」とあり、同じ寛文年間に作成された熊本城絵図には
「平左衛門丸五階櫓」との記載がある。
平左衛門丸には加藤平左衛門の屋敷があり、
小西氏の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、
平左衛門丸に建てられていた櫓には「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように
「宇土」を冠していたことが江戸中期の『肥後録』にあることから宇土櫓も同様の由来で
名づけられたのだと北野隆はいう。


宇土櫓から見た熊本城の玄関口
右・西大手門 左・南大手門.JPG
写真右が西大手門で入城の際は一番にココから入ると言われる玄関口と係員。
写真左は南大手門で平成14年に復元された最大規模の櫓門。


飯田丸五階櫓
飯田丸五階櫓.JPG
飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)は、飯田丸の南西隅にあった櫓である。
櫓台の石垣は2段に築かれており、かつては1段目にL字型の要人櫓を配し、
より立体的に攻撃できるようになっていた。


武者走り.JPG
廊下の説明.JPG


鉄砲狭間.JPG
鉄砲狭間の説明.JPG
ここから銃撃した。
鉄砲狭間の正しい見学姿勢.JPG
鉄砲狭間の正しい見学時の姿勢
なお、石垣は元々段差がなく後に、五階櫓の櫓台に1段目を被せるように造ってある。
この痕跡は元札櫓門へのクランク左側の石垣に旧石垣の反りを確認できる。
防衛面では竹の丸入口の櫨方門周辺と西出丸へと続く南坂への攻撃や指揮所として役割があった。
西南戦争前に陸軍により破却されていたが、平成17年(2005年)に木造にて再建されている。
古の知恵.JPG
別の接ぎ方.JPG
梁の接ぎ方に古の知恵がみられます。
飯田丸五階櫓内部.JPG
木造で再建された飯田丸五階櫓内部


広い奉行丸と未申櫓.JPG
飯田丸五階櫓から見る奉行丸
写真左が未申櫓
写真右が元太鼓櫓


遺構
宇土櫓をはじめ監物櫓(長岡図書預櫓)、平櫓、五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、源之進櫓、四間櫓、
十四間櫓、七間櫓、田子櫓の各櫓、長塀(全長約242メートル)、不開門の13棟の遺構は現存し、
それぞれ国の重要文化財に指定されている。


雑学
加藤氏にかかわる話
加藤清正.JPG
復元された昭君之間江戸時代、熊本藩の歴史の大半を占めたのは細川氏であったが、
西南戦争で天守が焼失する様を地元の人は「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだといい、
西南戦争の際、官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛は
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったという。
このように、熊本城には加藤氏・加藤清正にかかわる話がある。

銀杏の木
「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏(いちょう)の木である。
これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。
朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かしているといわれているが、
この銀杏の大木は雄木なので実はならず、城内を知らない者が後世創った俗説と考えられる。
また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」と
つぶやいたという言い伝えがある。
明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、
明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。
また、同様に篭城時の食料の確保に関して、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、
畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたという。

替えの建材
細川家の治世中に、ある櫓の柱が腐ってしまった。交換のため櫓の解体をしたところ、
「この柱はどこそこの池に替えの木材を沈めている」と書いてあり、指定の池を調べたところ、
果たして木材が出てきて清正の準備のよさに驚いたとの逸話がある。
いつ、どの櫓、どこの池というのが全く伝わっていない類の話ではあるが、
城の管理者が細川家に移っても清正にかかわる話が創られていたことが伺える。

井戸
天守閣内の井戸
天守の井戸.JPG
梅園の井戸
梅園にも井戸.JPG
清正は水においても設計は手堅かった。朝鮮出兵における蔚山城籠城戦で、
特に水で苦労したことから、城内に120箇所の井戸を掘り、籠城に備えている。
どの井戸も規模が大きくて深く、しかも水量が豊かであった。これらは江戸時代を通じ、
そして西南戦争で官軍が籠城した際にも使われ、官軍の勝因の一つとなった。

昭君之間
本丸御殿の最深部には、中国の故事に出てくる王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵ともいわれる)のある
「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。
この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、
藩主の居間として使われていたようだが、
一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれている。
“しょうくん”=“しょうぐん”(将軍)の意とする説がある
(当時は濁点を打たないので、仮名で書けば同一になる)。
表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだという。

二の丸
重臣の屋敷や後に藩校も置かれた二の丸はそれらの間を縫うように
街道(薩摩街道)を通らせる構造であった。
江戸時代の最初期には島津家の大名行列もこの街道を利用していた。
隣地とのこともあり加藤家と何かと反目していた当時の薩摩藩主、
島津家久は他藩である熊本城内を鑓を立てて通る示威行為を行った。
すると、すかさず街道沿いのすべての銃眼を開き、銃口を向けて鑓を伏せさせたという話が残っている。
島津家の大名行列は、後に領内より船で大阪へ渡るルートへと変更されたのでこの後、
互いの領内でのトラブルはなくなったが、関ヶ原の戦い後の緊張感と熊本城の主な目的が伝わる逸話である。

石垣作りの秘密
江戸幕府の開初期、家康より江戸城の石垣普請で浅野家(浅野長晟)と加藤家は当時、
沼地であった桜田から日比谷辺りに至り隣合って石垣工事を命じられた。
浅野家は、早速工事にとりかかり期限より大分早く石垣を築き上げた。
一方、加藤家は森本儀太夫の進言によって予定地一面にアシなどのカヤを敷かせ、
その上に砂利や土を被せて近所の10歳から14歳までの子供に開放して遊ばせた。
その様子を他藩の人々は笑ったという。
そうして、期限いっぱいかけて石垣を築き上げた。家康は、浅野家のすばやい工事を褒め、
浅野家の工事責任者には褒賞を与えた。
ところが、翌、慶長19年(1614年)の大雨時に浅野家の工事区間の
石垣は基底部から脆くも崩れたのに対し、隣の加藤家の工事区間の石垣はビクともせず、
浅野家は再工事の出費がかかる上、恥をかくことになった、という逸話がある。
ちなみに、この話は2代忠広の時のこととされている。
平成20年(2008年)に再建された本丸御殿の地質調査時に、この逸話を裏付ける調査結果が出た。
現在の熊本城の本丸は版築による増築部があることが判明した。
版築による入念な地固めこそが清正流石垣の秘密であり、
先の逸話で子供に相撲を取らせていたというのは、版築の槌音がお話として
変化していったと思われる。

焼失の原因
本丸御殿再建に伴う発掘調査で西南戦争の火災で焼けた様々な出土品が出たが、
同時に焼失したとされた兵糧米500石分の痕跡が見つからなかった。
通常、大量の米が焼失すると中心部は炭化米として残るが大量の出土品の中から
炭化米はついに出なかった。
また、今まで城域すべてがこの火災で焼失されたと伝えられていたが実際の罹災範囲は上記にあるように
現在の本丸部分と東竹之丸の櫓門1つだけに限定されたものであった。
この火災原因には様々な説があり今までは、
鎮台の自焼説は篭城兵糧を失った点に問題があると指摘されていた。


混在する家紋
桔梗紋瓦(ききょうもんがわら)
桔梗紋.JPG

九曜紋瓦(くようもんがわら)
九曜紋瓦.JPG

巴紋瓦(ともえもんがわら)
巴紋瓦.jpg←拾い物画像[ふらふら]
このように熊本城内には三種類の家紋が混在する。
もともと加藤清正の家紋と言えば『蛇の目(じゃのめ』が有名
小さなレプリカだけど加藤清正甲冑.JPG
小さなレプリカの甲冑(加藤清正)
鎧には『蛇の目』の紋が描かれている。


天正16年(1588年)加藤清正は5500石の侍大将から肥後北半国19万5000石の領主に任じられる。
その際、秀吉は前年に改易(かいえき)した讃岐(さぬき)の尾藤知定(びとうともさだ)の
武具・調度一切を清正に与えた。その尾藤家の紋が「桔梗」であった。
清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使い、自分の家紋にしたと言われる。
また、清正はあとひとつ「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていました。
戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」というふうに、
用途により3種類を使い分けていたそうです。
熊本城の頬当御門(ほほあてごもん)の横にそびえる宇土櫓(うとやぐら)の軒に使われている丸瓦の紋は、
細川時代の九曜紋(くようもん)、加藤時代の桔梗紋、火難除けの巴紋(ともえもん)の3種類の瓦が
混在しています。


今日、紹介した以外にも豪華絢爛な本丸御殿やお城も周辺には夏目漱石の旧居など
様々な名所がありますが、何分熊本城が広く一日だけではとてもすべてを見学することができませんでした[あせあせ(飛び散る汗)]
本丸御殿等はまた後々ご紹介します[わーい(嬉しい顔)]
(気が向いたらだけどね・・・[たらーっ(汗)]

制覇!!両子寺無明橋(ふたごじむみょうばし)さよなら、秘境ハンター!? [すいすぽでドライブ]

みなさんこんばんはぁ[三日月]
久しぶりの『秘境のお時間』がやってまいりました[イベント]
主に無明橋(むみょうばし)を求めて道なき道をゆくコーナーの『秘境のお時間』も
今日で無事終わりを迎えることになりそうです[exclamation×2]
今まで密かにアクセスしてくださっていた皆様のおかげでございます[ぴかぴか(新しい)]
(無明橋の検索数って結構少ないんだよ・・・[たらーっ(汗)]僕の苦労と裏腹にね・・・[たらーっ(汗)]


長い前置きはおいといて
さぁ行こう[exclamation]
秘境に架かる天空の橋へ[パンチ]


大分県国東市安岐町両子
ココに4つの無明橋の最後、両子寺無明橋(ふたごじむみょうばし)がある
天台宗別格本山両子寺はその歴史も古く
AD18年(養老2年)・・・[あせあせ(飛び散る汗)]
両子寺の説明.JPG
・・・コレ・・・両子寺の説明ね[exclamation]
(説明をサボるんじゃない[どんっ(衝撃)]


両子寺へは県道29号線を通ってると看板が沢山あるので解りやすいよ[るんるん]


最後に残された無名橋を求めてやってきたのですが・・・
両子寺無明橋.JPG
あっさり発見してしまいました[爆弾]
みんなごめんね[あせあせ(飛び散る汗)]
今日でこの『秘境のお時間』も終わりなんだけど・・・
あっさり終わっちゃったね・・・[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


とりあえず最後の無明橋を渡ります[るんるん]
無明橋コンプリート.JPG
思えば何故か高い所が苦手なくせに、中山仙境、天念寺、津波戸山と岩だらけの山を
荒行のように登って悟りさえ開いてしまいそうな無明橋めぐりでした[ぴかぴか(新しい)]
全4つの無明橋を制覇した僕の姿はどこか神々しくありませんか[ぴかぴか(新しい)]
(アホに輪を掛けてアホにみえるゾ[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


橋の下の観音様.JPG
無明橋の言い伝えで、橋の下には観音様が祀ってあり、
この橋を渡ると不思議と信仰心が沸き起こると伝えられ、牛や馬が渡れば
落橋すると言われています。
僕がこれまで渡ってきた無明橋も悪い心の持ち主が渡ると橋が折れてしまうと言う
言い伝えがありました。


両子寺仁王像.JPG
あまりにもあっさりと無明橋を渡りきってしまったので、お寺を散策することにしましょう
(入場に200円がひつようなんだよ[exclamation]


仁王像の説明.JPG


護摩堂.JPG
護摩堂の左側に石で出来たマニ車があります一度まわすと一回(だったっけ?)ありがたいお経を
読んだ事になるそうなので、今度高出力のエンジンでぐるぐる回しちゃろうと思います[爆弾]


護摩堂は自由に見学出来るのですが撮影は厳禁です[カメラ]
両子寺には皇太子様も来られたことがあるようで、記念の写真が壁に掛けられていました。


七不思議・時雨もみじ.JPG
奥ノ院へ行く途中に七不思議を発見[exclamation]
しぐれ紅葉というらしく、晴れている日でも上を見上げると雫が垂れてくるといわれる
不思議な紅葉です。


七不思議・鬼橋.JPG
更にもうひとつ七不思議を発見[exclamation]
鬼橋といわれる橋で、昔、千徳坊と言う力持ちのお坊さんが山から引きずりおろして
橋にしたといわれる大石です[exclamation×2]
力持ちすぎです[exclamation×2]


無明橋を制覇してしまった今、この七不思議のナゾをとくしか目標がないので
とりあえず七不思議を探して境内をうろうろします。


意外とあっさり見つかるんじゃね[るんるん][るんるん]
みたいな気持ちで散策していたのが間違いだったようです[ふらふら]
ここから探検開始!.JPG
いきなり秘境の匂いがしてきました[あせあせ(飛び散る汗)]


百体観音.JPG
七不思議のひとつではないようですが
百体観音を紹介します[手(チョキ)]
いたるところに観音様があります。
このサイズと質感の観音様は今までの無明橋にあった観音様です[かわいい]
この地に百体もの観音様はないようですが、コレまでまわった無明橋の観音様を
合計すると百体くらい余裕でありそうな予感[exclamation×2]
百体観音ってそういうことなのか[exclamation&question]


針の耳.JPG
滑る.JPG
津波戸山無明橋を探検したときにもあった針の耳です[ぴかぴか(新しい)]
山腹に岩が重なり合い、その隙間を通るのが針に糸を通すように難しそうなところがあるが
不思議と容易に通り抜ける事ができる。
(・・・らしい[あせあせ(飛び散る汗)]


鬼の背割り.JPG
山腹に昔、千徳坊と言う力持ちのお坊さんが、背中で割って通路を開けたといわれる大岩
(割りすぎです[爆弾]


鹿のつめ石はどこだ.JPG
残る走水観音と鹿のツメ石を捜し求め登山中・・・[あせあせ(飛び散る汗)]


岩のコケからの生命.JPG
岩のコケから新たな生命が力強く育っています[パンチ]


ししがみ様の痕跡が!.JPG
しし神様の気配をかんじる[exclamation×2]
登山中も鹿を発見しました[手(グー)]
サンはいないようです[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
(あたりまえじゃい[exclamation×2]


電波塔.JPG
息も絶え絶えに鹿のツメ石を探していたら両子山(721m)の山頂に到達しちゃいました・・・[たらーっ(汗)]


展望台.JPG
石版めっけ!.JPG
姫島。あそこにも七不思議が.JPG
姫島の七不思議も一個だけ見つけることが出来なかったなぁ・・・[ふらふら]


制覇した山々・・・だったらいいなぁ.JPG
僕が制覇した山々が連なります[exclamation]・・・って言ってみたい[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


後から調べてわかった事に走水観音は僕が車を止めた駐車場の近くにあると言う事でした・・・[わーい(嬉しい顔)][あせあせ(飛び散る汗)]
(くやしーです)
でも、鹿のツメ石がなかなか発見できないんだよなぁ・・・[もうやだ~(悲しい顔)]


向こう岸の街へ.JPG
最初の中山仙境の無明橋を制覇したときに訪れたこの地[ぴかぴか(新しい)]
夕陽百選の真玉海岸[晴れ]
夕陽は出てなかったけどコレはコレでキレイな景色を拝めました[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]


終わり、そしてはじまりへ.JPG
全ての無明橋を渡り終え、『秘境のお時間』もひとまず終わりを迎えました[手(チョキ)]
しかしまだまだ僕の身近には沢山の秘境が残されているに違いない[手(グー)]
『秘境ハンターゆき』はそこに秘境がある限り闘い続けるのだ[パンチ][爆弾][爆弾][爆弾]
(いつから秘境ハンターになったんだ[exclamation&question]

登山!津波戸山無明橋を求めて!のリベンジです! [すいすぽでドライブ]

R10沿いの看板.JPG
リベンジを誓った僕は2日後にまたこの地に立った。


駐車場も完備.JPG


昨日の雨で渓谷に水が流れていました!探検隊っぽぉい♡
昨日の雨で水が.JPG
水の流れる渓谷をのぼる.JPG
津波戸山・・・。
無明橋を求めて上り始めたけど、当初は時間と体力を消耗しただけで見つけることが出来なかった。


P1000124.JPG
大師の立像を奥へ進むと奇麗な風景に出会えました♪


落ちる雫が奇麗でした.JPG
昨日の雨が岩を伝って雫が落ちてきているのですが、その雫が太陽の光に照らされて
真珠のように輝いていました。


お??.JPG


耳の針て変な名前だね.JPG
耳の針と言う場所に到着!


針の耳.JPG
苔むして濡れた岩場を登るのはつるつる滑って非常に危険が伴います。


P1000039.JPG


最近よく見かける顔になりました.JPG
最近お地蔵様もよく見る顔になりました(笑)


登山開始から1時間程度で津波戸山の無明橋を発見しました!!
やったぁ!!
津波戸無明橋!!.JPG


た・・・たけえよ.JPG
この崖は落ちたら死ぬ崖.JPG


無明橋を渡り切った後、遠くの岩山の尾根から『ヤッホー!』の呼び声が♪
深い谷を挟み、3~4人の登山されている方が、こちらにてを振ってくれていたので振り返しました☆
写真じゃちっちゃくて解りにくいけど.JPG


P1000052.JPG


下山後、駐車場に戻ると、登山前に止まっていた山口ナンバーの車が。
僕がへっぴり腰で無明橋を渡り切ったときに手を振ってくれていた
奥さんでした♪
軽い挨拶を交わし帰路についたのですが、やっぱ登山っていいですねぇ♪
沢山の出会いや発見が待っています!




タグ:大分県 秘境

登山!津波戸山無明橋を求めて! [すいすぽでドライブ]

ガサゴソ・・・

ゴソゴソゴソ・・・

ガサガサ!





IMG_2110.JPG
週一回は山の落ち葉を踏みしめるゼ!
にわかアルペニストのゆきです(*^^)v
また秘境のお時間がやってきました!!
中山仙境の無明橋、天念寺の無明橋と着々と制覇してきたこの冒険!
今回僕がやってきたのは津波戸山無明橋(つわどさん)
ふっふっふ・・・
待ってろよ無名橋!
今日もお前を渡り切るぜ!!


ではでは元気よくしゅっぱーつ\(^o^)/


まずは登山前に地図を確認しておこう!
津波戸山登山案内図.JPG
何か分かれ道が沢山あってまよいそうだなぁ・・・


スキップスキップ♪ランランラン♪.JPG
最近暖かくなってきたからちょっと多めに飲み物を持って探検します♪
(またそんな目立たない服着て!遭難したらどうするん!!)


調子こいて余裕綽々な行軍をすると、手前の難関でこうなります・・・
死んでないよ!休憩だよ!.JPG
ばてばてじゃないよ!ちょっと休憩してるだけだよ!


ここを登る途中に他の登山されている方に出会いました!
無明橋って結構メジャーな所なんだろうね♪
ご夫婦で登られているらしくちゃんとした装備をされていました。
やっぱ普通、動きやすくて目立つ服装にザックを背負ってのぼるよねぇ・・・
死んでないよ!休憩だよ!.JPG
だよねぇ・・・



さて、復活したらどんどん上りましょう!
途中であったご夫妻はすでに下山されていました。
・・・今日もお昼まで寝てからねぇ・・・
暗くなる前には・・・ねぇ・・・


津波戸山説明①.JPG
津波戸山説明②.JPG
津波戸山説明③.JPG
津波戸山説明④.JPG


一番最初の見所がこの海蔵寺跡です。
海蔵寺石段.JPG
海蔵寺跡.JPG


今日の登山も1000m以下のあたりをうろちょろするのですが、
僕は登山経験がないに等しいのでしっかりお祈り。
津波戸山弘法大師.JPG


高い所や狭い道にビビリながら地図で言う88番辺りに着きました。
実際の所、現段階で自分が何処にいるのかがわかっていません。
これは、同じサバゲー仲間が言っていた『遭難ごっこ』の前兆かも!
(遭難ごっこの始まりは、自分の居場所がわからなくなった時。
そして、アスファルトが恋しくなったときらしい)
まだまだのぼるよ!.JPG


煩悩退散!.JPG


はるか遠くに由布岳が見えます。
いつかあの山も制覇したいなぁ(*^_^*)
その時はちゃんとした服装でパーティーを組んでとざんしたいなぁ(^u^)
地蔵のある風景.JPG


88~66へ岩山の尾根を行く.JPG
両サイドが崖で、なおかつ風が強くてめちゃめちゃ怖いです(;_;)
しかし無名橋ってどこにあるんだろ??


無明橋はどこだ.JPG


無名橋を求めてどんどん登るけど、標高とともに消耗していく時間と体力・・・
すでにこの時点で午後16:30・・・
僕のペース的に下山を考え始める時間です。


登山中にこんなもん発見しました!
最高の盆栽候補か!?.JPG
長年の強風で斜めったのか、幹を太らせればいい盆栽になりそうな松です!
(頭の中ではなぜか松けんサンバがフィーバーしてます♪・・・松の字しか共通点ないけど)
それにしても、無名橋・・・みつからんなぁ・・・






今日も登ったり下ったり.JPG
一生懸命無明橋を探したけど見つからなかったよ・・・
時間これ以上の散策で日が暮れるとまずいので、撤収します(泣)
まだ、無明橋を見つけてないけど、次回のリベンジということで!
近日中にリベンジしないとケムンパスの増殖が懸念される・・・


夫婦岩.JPG
狭いよぉ・・・.JPG
目が飛び出てて怖いです.JPG
16:30頃・・・
完全に迷子になってます。
好奇心と冒険心とで登ったり下ったり右に左に脇道を入った結果です(T_T)
ここどこだ??あ・・・アスファルトが恋しい・・・
・・・遭難ごっこスタートや・・・


IMG_2149.JPG
渓谷で遭難ごっこ.JPG
人って森の中で迷ったら上の方を見回しますよねぇ。
木に貼ってある番号から出口は近いんだと思うけど、実は三番の看板は
また登り道で三番のおくまで進むといよいよ『ごっこ』から逸脱した事態になっていたかもしれません(泣)


たまたま渓谷に出てこれたので、ずっと下っていくとやがてアスファルトに再会出来ました♪
そういえばさ、津波戸山の入り口で地図を撮ってたから、もうちょっと活用すればよかったよね・・・
忘れてたよ(苦笑)


温泉クーリング装置!!.JPG
別府ひょうたん温泉.JPG
一人で家族風呂へ.JPG
登山(遭難ごっこ)で疲れきった身体は大分県別府市にあるひょうたん温泉で癒しましょう☆
やったぁ♪
露天仙人.JPG
家族露天風呂の仙人(大人気)を独り占め!


染み渡るぅ♪.JPG
今日の探検は残念ながら無明橋を見つけることが出来なかったけど、
次回登るときには必ず見つけてやるぜ!
ちょこっと迷ってマジでヤベェかも!!って思ったけど、地図によれば渓谷を登っていくだけで
津波戸山の山頂にいけるんだもんね!
(かなり大雑把な地図だけど・・・)
よし!!そうと決まれば次の休みにリベンジだ!!
タグ:秘境 大分県

今日も秘境へ!羅漢寺 [すいすぽでドライブ]

皆さんこんにちは♪
最近、神社やお寺をうろうろするのが大好きなゆきです♪
(と言うよりも、単に秘境が好きなだけで、秘境の先に宗教がある構図なのだ)
今週の『秘境のお時間』は大分県中津市の羅漢寺からでぇす♡


羅漢寺(らかんじ)は、大曹洞宗の寺院で、山号は耆闍崛山(ぎしゃくつせん)。
本尊は釈迦如来です。
羅漢寺へ.JPG
羅漢寺の歴史.JPG


羅漢寺には、本堂へ向かう途中に禅海堂があり、青の洞門を掘った際の遺品が展示されています
が・・・
閉まってる・・・.JPG
猫ちゃんに案内されて付いてきたのに閉まってました・・・
羅漢寺にはなんも関係ないけど、アメリカ軍のACU迷彩って・・・
もしかして猫みて思いついたとか??


カムフラージュ率の高いACUねこちゃんとお別れし、羅漢寺探検を再開!
仁王門.JPG
仁王門説明.JPG
仁王像.JPG仁王像説明.JPG


由緒正しき仁王門を抜け、本堂を目指します。
そそられる参道.JPG


続く旧道.JPG


羅漢山の中腹に位置する。岩壁に無数の洞窟があり、
山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている。
洞窟の中に3700体以上の石仏が安置され、中でも無漏洞(むろどう)の五百羅漢が有名である。


山門.JPG
山門説明.JPG


千体地蔵。.JPG
千体地蔵説明.JPG
縁結び地蔵が見えるよ.JPG


羅漢寺。.JPG
五百羅漢説明.JPG
何でしゃもじなのかはよくわからないけどとにかく新旧しゃもじに事欠かないスポットです。


ビンツルさんですか?.JPG
お堂からたった一体だけあぶれた石像が・・・
も・・・もしや・・・アナタがビンツルさんですか!?


羅漢寺内部.JPG


な・・・ななめった・・・.JPG
1530年から1587年まで豊後国一帯を治めていたキリシタン大名大友宗麟は領内の
寺院を沢山焼き払ってきたけど、ここ羅漢寺は焼き払わなかったそうです。


寺.JPG


今日のブログの記事はあまり文章を書かなかったけど、
写真の説明を読むと結構濃い内容になってるね!


秘境の先にあるもの・・・それは宗教だったり、絶景だったりするね♪
いつも険しい山道を登ってお寺を参拝するけ、徳のあるお坊さんとかになれんのかな?
寺からの風景.JPG
では、今週の『秘境のお時間』は地元近郊の羅漢寺からお届けいたしました☆

前の10件 | 次の10件 すいすぽでドライブ ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。