ゆけ!薩摩半島へ(^-^)/ノンジャンルな南国一人旅(*´∇`*)~二日目~ [すいすぽでドライブ]
たまには都会の風に吹かれないとコテコテのいなかっぺ大将になっちゃうよ(>▽<;;
って事で、一日目の夜は鹿児島市に宿をとり街中を徘徊します!
徘徊場所に選んだのは『天文館』(てんもんかん)という商業・娯楽地区(*'-'*)
若者達は『天街』(てんまち)という愛称で呼んでいるそうですが、実はこの天文館
江戸時代、第25代薩摩藩主・島津重豪(しまづ しげひで)が、
この界隈に天体観測や暦を研究する施設明時館、別名「天文館」を建設したことに由来する立派な歴史が
あります\(^▽^)/
『おい!あの星はなんと言う星じゃ?』
『はい。あれはうさぎ跳びと大リーグボール養成ギブスで有名な巨人の星でございます(*´∇`*)』
なんていう会話がこの天文館であったのかも?
アーケードをぷらぷらしているとお腹が減って来たのでスリランカ料理をいただきます(*'-'*)
カレーやピラフはピリ辛で食べてるだけでも汗をカキカキ(*'ー'*)
スリランカのビールで喉を潤しながら完食いたしましたo(*^▽^*)o~♪
ビールで気分が良くなったら城山公園を目指して歩き始めます(*'-'*)
少し距離は離れているけど、こんな重厚感溢れる建物がライトアップされていたりします。
この建物は昭和2年10月に完成した鹿児島市公会堂で、今では中央公民館として、館内では様々な
文化活動、イベントが行われています。
鹿児島と言えば西郷さんですが、下からのライトアップはちと恐怖です,,,,,,,,,,,,(((( *≧∇)ノノノ
そして、鶴丸城の石垣沿いに城山公園へ進んでいくと次第に上り坂に。
で、コレが西郷洞窟(さいごうどうくつ)です。
ただの穴じゃないよ=*^-^*=
西郷洞窟は西南戦争の田原坂の戦いにおいて敗走した西郷隆盛が自害した所です。
日本最後の内戦はここが終焉の地だったんですねぇ!
そして、鹿児島一日目の観光もこの城山公園からの鹿児島市の夜景で終了です=*^-^*=
後は、ホテルの近くの居酒屋さんで飲んで
ホテルに戻って飲んで
最後の最後まで、鹿児島名物を食べずに終わってしまいました(* ̄▽ ̄*)ノ"
翌朝・・・おはよぉo(*^▽^*)o~♪
と元気欲起きるつもりでしたが若干飲みすぎた感が( ̄Д ̄;)
ちとボォ~っとする頭で朝から島津家別邸の観光を開始します(*´∇`*)
ここは国定指定名勝の仙巌園(せんがんえん)です。
仙巌園(せんがんえん)は万治元年(まんじがんねん)(1658年)十九代島津光久(しまづ みつひさ)が
別邸として築いたもので、その景観が中国(江西省)竜虎山山麓の仙巌に似ている所から名づけられました。
錦江湾や桜島を取り入れた借景の雄大さは日本一であると言われています。
千尋巌(せんじんがん)
巨大な岩石に刻まれた11mにも及ぶ千尋巌の大文字は二十七代島津斉興(しまづ なりおき)が
文化十一年(1814年)四月に完成させたものです。
この文字を刻む為に延人員三千九百人と三ヶ月もの日数を要し、
工事の際は礫山の杉や竹で足場を組んで作業を行ったと言われています。
このように岩に文字を刻む作庭方法は日本庭園では大変珍しく、中国文化の影響と思われます。
御殿
落成の日に鶴が舞い降りた事から喜鶴亭(きかくてい)と名づけられました。
廃藩置県が行われ、島津家の居城であった鶴丸城が島津家からはなれたため、
島津家の鹿児島での生活はここ磯に移りました。
御殿の中庭には池があり、池の底には八角形のくぼみがあります。
これは風水の影響を受けていると言われています。
島津家は中国と交流があり、1840年に行われた中国の清と大英帝国が戦ったアヘン戦争で
中国が敗れた事を知った島津の殿様は大変ショックを受けたそうです。
御殿内部をアレコレ見て回った後はお抹茶で一息=*^-^*=
白い器に写真では見えないけど細かいヒビが無数に走った茶碗はお殿様用の茶碗だそうです。
お茶菓子には島津家の家紋をあしらった竜頭です。
では、豪華絢爛で勇壮な御殿、庭園を見学した後は強く豊かな日本を目指した薩摩を見に行きましょう!
いきなり現れたのは百五十斤(ポンド)鉄製砲です!
幕末の1840年代。薩摩は日本の何処よりも早く通商を求める西欧列強の外圧にさらされていたため、
当時の薩摩藩主、島津斉彬(しまづ なりあきら)が造らせた鉄製の大砲のレプリカです。
150ポンド(70kg)の砲弾を3000m飛ばす事のできた当時最大の大砲は薩英戦争で2門使用され、
威力を発揮しました。
当時主流だった青銅製の大砲は在来技術で鋳造された大砲ですが、百五十斤鉄製砲は
西洋式の溶鉱炉・反射炉を使用し鋳造されました。
これらの写真はその反射炉の跡です。
外観はこんな感じの建物が建っていたそうです。
近代日本発祥の地と言うに相応しい立派な反射炉だったのでしょう(*'-'*)
そして最後はストーンハウスこと集成館!
幕末に島津斉彬(しまづ なりあきら)が築いた工場です。
植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に危機感を抱いた斉彬は
日本が植民地にされないためには富国強兵・殖産興業政策を推進しました。
集成館はその各となった工場群の総称です。
ガラス製品や鉄製の大砲蒸気機関の研究などが行われていて、最盛期には1200名もの人が働いていました。
しかし薩英戦争の折にイギリス軍からの攻撃で焼失してしまいますが、
見事イギリス軍を追い払えたのも島津斉彬が推し進めてきた政策あってのことだったと再建され、
薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたりました。
と、まぁこんな感じで今回の記事は歴史のお勉強チックになっちゃいましたが、
最後までお付き合いしていただいた皆様!お疲れ様でした(>▽<;;
って事で、一日目の夜は鹿児島市に宿をとり街中を徘徊します!
徘徊場所に選んだのは『天文館』(てんもんかん)という商業・娯楽地区(*'-'*)
若者達は『天街』(てんまち)という愛称で呼んでいるそうですが、実はこの天文館
江戸時代、第25代薩摩藩主・島津重豪(しまづ しげひで)が、
この界隈に天体観測や暦を研究する施設明時館、別名「天文館」を建設したことに由来する立派な歴史が
あります\(^▽^)/
『おい!あの星はなんと言う星じゃ?』
『はい。あれはうさぎ跳びと大リーグボール養成ギブスで有名な巨人の星でございます(*´∇`*)』
なんていう会話がこの天文館であったのかも?
アーケードをぷらぷらしているとお腹が減って来たのでスリランカ料理をいただきます(*'-'*)
カレーやピラフはピリ辛で食べてるだけでも汗をカキカキ(*'ー'*)
スリランカのビールで喉を潤しながら完食いたしましたo(*^▽^*)o~♪
ビールで気分が良くなったら城山公園を目指して歩き始めます(*'-'*)
少し距離は離れているけど、こんな重厚感溢れる建物がライトアップされていたりします。
この建物は昭和2年10月に完成した鹿児島市公会堂で、今では中央公民館として、館内では様々な
文化活動、イベントが行われています。
鹿児島と言えば西郷さんですが、下からのライトアップはちと恐怖です,,,,,,,,,,,,(((( *≧∇)ノノノ
そして、鶴丸城の石垣沿いに城山公園へ進んでいくと次第に上り坂に。
で、コレが西郷洞窟(さいごうどうくつ)です。
ただの穴じゃないよ=*^-^*=
西郷洞窟は西南戦争の田原坂の戦いにおいて敗走した西郷隆盛が自害した所です。
日本最後の内戦はここが終焉の地だったんですねぇ!
そして、鹿児島一日目の観光もこの城山公園からの鹿児島市の夜景で終了です=*^-^*=
後は、ホテルの近くの居酒屋さんで飲んで
ホテルに戻って飲んで
最後の最後まで、鹿児島名物を食べずに終わってしまいました(* ̄▽ ̄*)ノ"
翌朝・・・おはよぉo(*^▽^*)o~♪
と元気欲起きるつもりでしたが若干飲みすぎた感が( ̄Д ̄;)
ちとボォ~っとする頭で朝から島津家別邸の観光を開始します(*´∇`*)
ここは国定指定名勝の仙巌園(せんがんえん)です。
仙巌園(せんがんえん)は万治元年(まんじがんねん)(1658年)十九代島津光久(しまづ みつひさ)が
別邸として築いたもので、その景観が中国(江西省)竜虎山山麓の仙巌に似ている所から名づけられました。
錦江湾や桜島を取り入れた借景の雄大さは日本一であると言われています。
千尋巌(せんじんがん)
巨大な岩石に刻まれた11mにも及ぶ千尋巌の大文字は二十七代島津斉興(しまづ なりおき)が
文化十一年(1814年)四月に完成させたものです。
この文字を刻む為に延人員三千九百人と三ヶ月もの日数を要し、
工事の際は礫山の杉や竹で足場を組んで作業を行ったと言われています。
このように岩に文字を刻む作庭方法は日本庭園では大変珍しく、中国文化の影響と思われます。
御殿
落成の日に鶴が舞い降りた事から喜鶴亭(きかくてい)と名づけられました。
廃藩置県が行われ、島津家の居城であった鶴丸城が島津家からはなれたため、
島津家の鹿児島での生活はここ磯に移りました。
御殿の中庭には池があり、池の底には八角形のくぼみがあります。
これは風水の影響を受けていると言われています。
島津家は中国と交流があり、1840年に行われた中国の清と大英帝国が戦ったアヘン戦争で
中国が敗れた事を知った島津の殿様は大変ショックを受けたそうです。
御殿内部をアレコレ見て回った後はお抹茶で一息=*^-^*=
白い器に写真では見えないけど細かいヒビが無数に走った茶碗はお殿様用の茶碗だそうです。
お茶菓子には島津家の家紋をあしらった竜頭です。
では、豪華絢爛で勇壮な御殿、庭園を見学した後は強く豊かな日本を目指した薩摩を見に行きましょう!
いきなり現れたのは百五十斤(ポンド)鉄製砲です!
幕末の1840年代。薩摩は日本の何処よりも早く通商を求める西欧列強の外圧にさらされていたため、
当時の薩摩藩主、島津斉彬(しまづ なりあきら)が造らせた鉄製の大砲のレプリカです。
150ポンド(70kg)の砲弾を3000m飛ばす事のできた当時最大の大砲は薩英戦争で2門使用され、
威力を発揮しました。
当時主流だった青銅製の大砲は在来技術で鋳造された大砲ですが、百五十斤鉄製砲は
西洋式の溶鉱炉・反射炉を使用し鋳造されました。
これらの写真はその反射炉の跡です。
外観はこんな感じの建物が建っていたそうです。
近代日本発祥の地と言うに相応しい立派な反射炉だったのでしょう(*'-'*)
そして最後はストーンハウスこと集成館!
幕末に島津斉彬(しまづ なりあきら)が築いた工場です。
植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に危機感を抱いた斉彬は
日本が植民地にされないためには富国強兵・殖産興業政策を推進しました。
集成館はその各となった工場群の総称です。
ガラス製品や鉄製の大砲蒸気機関の研究などが行われていて、最盛期には1200名もの人が働いていました。
しかし薩英戦争の折にイギリス軍からの攻撃で焼失してしまいますが、
見事イギリス軍を追い払えたのも島津斉彬が推し進めてきた政策あってのことだったと再建され、
薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたりました。
と、まぁこんな感じで今回の記事は歴史のお勉強チックになっちゃいましたが、
最後までお付き合いしていただいた皆様!お疲れ様でした(>▽<;;
以前出張で鹿児島市内へは行ったことがあって、天文館辺りは本当に賑やかですよね。観光はしていないので、見所が色々あって、旅行で行ってみたいみたいです。
by Live (2011-03-17 09:35)
仙巌園!
昨年 たまたま立ち寄ったのですが、
巨大な岩石 すごいですよね☆
by お茶屋 (2011-03-17 10:03)
西郷さん、その洞窟で何を考えていたのでしょうね。
西郷さん、49歳。あと数年でそんな齢ですが、あまりにも違い過ぎますね。
ビール,ビール,カクテル,発泡酒、さぞかし美味しかったでしょうね。
by tsun (2011-03-17 11:36)
鹿児島を目的地にいろいろ調査中でしたが、
西郷洞窟は漏れてました( ; ゚Д゚)
旅立つ前にチェックできてよかったです(が、山の上か~)
by Sazaby (2011-03-17 19:45)
千尋巌、存在は知ってましたが
ちひろがんだと思ってました^^;
by くまら (2011-03-17 20:09)
ご訪問をありがとうございます。あのペッパーは香りがいいのです。
by デルフィニウム (2011-03-17 22:50)
ライトアップがきれいですね。
by pandan (2011-03-18 07:38)
ゆきさんって。。。男性だったんですか?この記事の写真にあるご飯も、お茶とお菓子も、女性的だし、なにしろ、ゆきっていうから。。。てっきり女性かと思っていました。。。女性のライダーだと。。。(#^.^#)
さて、私も鹿児島に行ってみたいです!1度ドライブで行ったことはあるのですが、天気も悪く。。。
新幹線も通ったことだし、近いうちに。。と思っています。
by リン (2011-03-18 18:56)
薩摩満喫の旅、素敵です。
自分もお殿様の茶碗で抹茶飲みたいです。^^
by susumu (2011-03-18 22:06)